夜中の電話は悪い知らせと決まっている。
誰かがひどい怪我をして病院に運び込まれたか、誰かが事件に巻き込まれて行方不明、それとも誰かが死んでしまった・・・。
そんなとき私の頭のなかに決まって浮かぶイメージは、相棒の後姿。
私のほうへと振り向きもせず、チラリと横顔を見せただけで去っていく。
私は彼の背中をなす術もなく見つめ続け、去っていく彼の背中はどんどん小さくなり、とうとう私の手の届かない場所へと消えてしまう。

ベッド脇のスタンドを点け、眩しさに目を細めながら、ナイトテーブルの上で鳴り続ける携帯を手で探りながら私は考える。
夜中の電話が悪い知らせばかりとは限らないわ。
私の不眠症の相棒は、眠れない夜にたびたび電話をかけてくる。
そんなときの話題は、「天気予報と占いとでは、どちらが当たる確率が高いと思うか」や、
お互いにさほど詳しいとは言えない「音楽の話」...とくに彼はウッドストックの話題がお気に入りで、まるで自分がその時代を生きてきたように、そしてまた
その時代を生きていない者に愛と平和を語る資格はないとでもいうように話すけれど、
たとえ彼がどんなに早熟な少年だったとしても（たぶん彼は早熟だったに違いないが）ウッドストックをリアルタイムで語るためには、少なくともあと5年は早く生まれる必要がある。

私のお気に入りは「StarskyとHutchのどちらが魅力的なお尻をしていたか」についてで
私はStarskyのお尻が好きだったけれど、彼はドラマに出てくる車の話ばかり。
たしか彼はStarskyの派手なトリノより、Hutchの地味なセダンが気に入っているようだった。
ドアを開けると自動的に騒がしくクラクションが鳴り出すおんぼろセダン。
とにかく、そんな他愛のないことをベッドのなかで -相棒はカウチに横になって- 話しながら小一時間過ごしたりする。

テーブルで辛抱強く鳴り続ける携帯を手に取ると、不安を無理矢理飲み込んで通話ボタンを押す。

「Scully」

そのとたん、無機質なベルの呼び出し音が、心地良い相棒の声にとって代わった。
受話器から聞こえる彼の声は、いつもオフィスで聞く声と少し違う。
それは彼の声がいくつかの携帯無線基地局を旅してくるせいなのか、仕事から解放された気楽さからか、それとも深夜の時間特有の親密さなのか。

もちろん最初の理由が正解。
2番目もあながち間違ってはいない。
最後の理由は頭から追い出す。

彼の声を聞きながら、しばらく私は彼の言葉以外のなにかを聞きとることに専念する。
切迫した事態に遭遇していないか、言葉と言葉のあいだにSOSのサインが隠れていないかと。
私が下した診断は、今日の私の電話相手は、不眠症で電話魔のただのMulder。
ほっと安心して目を瞑り、再び自分の頭を枕に戻すと携帯を耳に当てたままベッドに横になった。

金曜の夜、目覚まし時計に起こされずに目覚める朝を私がどんなに楽しみにしてベッドに入るかなんて、ベッドを持たないこの男が知るはずがない。
私は目を瞑ったままで考える。
今の彼はグレーのTシャツ姿だろうか。
いつものカウチに横になっているのかもしれない。
彼の声の後ろから小さくTVの音が聞こえてくる。
きっとカウチに横になりながらリモコンでパチパチとチャンネルを変え、見たくもないTVを消せずにいるのだろう。
琥珀色のランプのなか、黒いカウチにゆったりと横になったMulderの顔にTV画面の青白い光がチラチラと揺れる。
私の頭の中にMulderの42号室が鮮やかに映し出された。

「Scully、聞いてるか？」

「・・・あぁ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしていたわ」

電話の先のMulderがしばらく無言になる。

「Mulder？」

彼が一つ咳払いをした。

「Scully、君さ、まさか僕に『いま何を着てるの？』なんて質問するつもりじゃないだろうな」

自分の心の中を覗かれたようでぎょっとした。
一瞬答えにつまった私に、彼が満面の笑みを浮かべているのがわかる。
少しのかげりもない彼の笑顔は、誰もが見ることを許されるものではない。
それは彼が私を信頼してくれたという証拠であり、私は彼を絶対傷つけたりしないということを彼が認めてくれた証しでもある。
自分に向けられたはずのその笑顔が、今の私には見ることができないこと、
そして彼の手の中に納まった小さな携帯電話が私の代わりにそれを独占していることに腹を立てている自分にあきれてしまう。

「Mulder、あなたがそうしてほしいっていうのなら、聞いてあげてもいいわよ。あなた今どんな服を着てるの？」

しまった、声が掠れてしまった。
そのせいか、ふざけたつもりの質問にシリアスなトーンが混ざる。
電話の向こうで彼がひそやかに笑う気配がする。

「残念ながら君のご希望通り、セクシーなボクサー姿とかじゃないよ。」

「あら、ボクサー姿が必ずしもセクシーとは限らないけど？」

口角をキュっと上げた彼の顔が見えるようだった。
そして今の私もたぶん彼と同じ顔をしている。

「今の僕は今日一日分の汗を吸ったワイシャツに、首からだらしなく垂れ下ったネクタイを揺らして、シワのよったズボンをはいている。
靴下は・・・一つはカウチの上、もう片方は・・・」

彼の声が受話器から遠くなったところから察すると、彼は靴下の片割れをさがして部屋を見まわしているらしい。
靴下の探求にはあまり興味のなさそうな声でMulderが続けた。

「もう片方は、たぶんここから玄関ドアまでのどこかだ」

素足のMulder・・・私はその光景を思い浮かべて無意識に唇を舌で湿らせた。
素足の彼の細長くて幅の狭い足、そしてそこから続く、キュっとしまった力強い足首、尖ったくるぶしとアキレス腱。
ロールアップしたシャツの袖からすんなりと伸びる日焼けした彼の腕や、ちょうど良くついた筋肉、ほどいてしまって首にかけたままになっているネクタイ、
ウエストからはみ出たワイシャツの裾、そんな乱れた姿のMulderを思い浮かべて、思わず喉を鳴らしてしまうところだった。
乱れたワイシャツ姿のMulderは、ボクサー1枚の彼よりもずっとセクシーなんだということに、彼はまったく気づいていない。

そんな考えを振り払うように、私は再び枕から頭を起こしてベッドに座り直した。
ナイトテーブルの時計を確認すると夜中の1時をまわっている。

「Mulder、あなた今頃までどこへ行っていたというの？」

起き上った拍子に額に落ちてきた髪を、やれやれという気持ちとともに片手で掻きあげる。
なにかまた厄介な事に首を突っ込んでいなければ良いけれど。

「心配はいらないよ、Scully。君が帰った後、しばらくオフィスに残って、昔Omniに発表したフロリダGulf BreezeでのUFO目撃証言についての論文にちょっと手を加えてたんだ。」

「論文？」

「あぁ、フロヒキーから原稿を頼まれてるんだ。TLGの機関紙用に」


それを聞いて少しほっとする。いつもの彼に比べれば、さほど厄介なことではない。
ただし、それが本当ならばの話。

「スキナーに提出する報告書もそのくらい熱心に仕上げてくれると私も助かるわ」

Mulderが面白そうに笑う声が聞こえる。
喉の奥から響くような低い笑い声に思わず体がゾクリと震えた。

「たぶんフロヒキーは僕に気があるんだと思うよ。たいした用事もないのに毎晩電話をよこすんだ。」

「Mulder、それを"催促"って言うんじゃない？」

「君は彼が僕の尻を見る目つきを知らないだろ」

私があなたのお尻をどんな顔で見ているか、あなたは知っているの？という質問を私は喉もとで飲み込んだ。
深夜の会話は話題を選ばなければいけない。
危険な話題は避けるのだ。

「それで、今度はどんな名前で記事を書くつもり？以前使っていたM.F.Luder はもう使えないわよ」

私は話題を安全な方向へと戻した。
そして不眠症の電話魔Mulderとの深夜の電話を楽しむことにして、楽な姿勢をとろうとヘッドボードに背中を預け、両足をベッドへ投げ出した。

「そうだな・・・名前はまだ決めてないけど、ブラッド・ピットとか、ジョージ・アダムスキーとかでは？」

「Mulder、他人の名前を騙るのは犯罪だわ」

「君に逮捕されるのも悪くないな。でも僕はネイティブ・アメリカン の名前も持ってるんだ。Running Fox はどうかな？」

「あら、Sneaky Fox ではなかったかしら？」

電話の向こうで小さな笑い声が聞こえる。

「Spooky Fox 以外ならなんでもいいさ」

言葉の終わりが大きな吐息でかき消され、軽いうめき声とともに彼がカウチに横になったことがわかる。
たぶん彼は携帯を耳に当てたまま、かろうじて彼の首にひっかかっていたはずのネクタイを片手で衣擦れの音を立てて引き抜いただろう。
毎晩長身の彼を包み込む黒いカウチは、すっかり彼の体の形に馴染んでしまっていて、彼のためだけにあの42号室に存在している。
引き抜かれたネクタイは、きっとあのカウチの背に無造作にかけられたはずだ。

「あなたはspookyなんかじゃないわ」

黒のカウチに背中からふんわりと抱きしめられた彼が、居心地の良い場所を探して体を落ち着けるのを待って、私は会話を続けた。
FBIの他の部署の連中から陰でSpooky Mulderと言われて冷笑されても、彼はまったく気にしているようには見えない。
愚かで失礼な捜査官などは、彼に直接"Spooky"と呼びかけることさえある。
そんなときにMulderが決まって見せる皮肉な笑みは、いつも私を悲しくさせる。
彼が心の底で傷ついているのを知っているから。
そしてまた、私は彼が仕事熱心で優秀な捜査官であり、天才的なプロファイラーであることも知っている。
そのことは彼を馬鹿にしている捜査官たちですら認めずにはいられないだろう。
その証拠に彼らは手持ちの事件が暗礁に乗り上げて解決が危ぶまれると、きまって地下オフィスのドアを叩き、
Mulderの机の上にはいつも他部署から回された未解決事件のファイルの山ができている。
そして彼らは、Mulderが眠るはずの時間を割いてプロファイルしたメモを利用して事件を解決し、それをすました顔で自分の手柄にするのだ。

Mulderの関心や興味はFBIで上司に認められ昇進することなどではまったくなく、犯罪捜査においては、犯人へとたどり着くまでのパズルを１つ１つ組み合わせていくような過程にある。
犯人の動機や行動を探るため、その心の闇に寄り添い、ギリギリのところから覗き込む。
そんな危険なプロファイルへの報酬は、たいてい「悪いな Spooky」 という一言とニヤニヤ笑いだけだ。

「Mulder、あなたは私が出会った中で最も優秀な捜査官でありプロファイラーの一人よ。spookyなんかじゃない。そう思っているのは私だけではないわ。
あなたがいつまでも地下オフィスにいるのは、局内にあなたの才能と情熱を恐れている人たちがいる証拠よ」

夜中の電話にしてはかなり熱のこもったスピーチになってしまったが、彼を正当に評価する者が少なくともここに一人いる。
彼にはそのことをわかっていてほしかった。

「Mulder？」

電話の先で黙ってしまった彼に不安になって呼びかけてみる。

「・・・Scully」

「なに？」

「君・・・君はいま・・・どんな格好で僕を口説いてるのかな？」

私は苦笑いとともに思わず目を瞑った。
彼はいつもそうだ。
話が核心へ、彼の柔らかな内部へと触れそうになると、きまってジョークではぐらかす。
これ以上は入ってくるなのサイン。
そして私はいつだってそのサインに渋々肯くしかないのだ。

きっと私も彼に同じ思いをさせているに違いない。
それとも彼を閉めだすことは、私のほうが多いだろうか。
そんなときの彼は、いつも無言で私が必要としているだけの距離をとる。
でも、私の小さな『助けて』を聞き逃さないだけの距離にいる。
彼の静かな優しさと思いやりは時々私を身動きできないほどに縛りつけ、心配顔で沈黙する彼に身勝手な怒りをぶつけたくなる。
それは私の我ままなのだろう。

彼も・・・同じなのだろうか。
もしかして彼も私と同じように、サインなんて気づかないふりをして、お互いが用心深く築き上げた醜い壁なんて壊してしまって、強引にでも心の中をのぞいてほしい。
そんなふうに思っているのだろうか。

それでも臆病な私は、今夜も彼のサインに肯いてしまう。
そして彼の戯言にふさわしい声のトーンを作るのだ。

「あなたはどんな格好で口説かれるのがお好みかしら？シルクのパジャマ？それとも、"あなたのじゃないビデオ"の女優が着けているような黒いランジェリー？」

Mulderが喉の奥で言葉にならない低い声をもらした。
嘘でしょう？
もしかして彼は私のランジェリー姿を想像して、あんなにセクシーな声を出したっていうの？

「頼むよ、Scully。全国優等生協会会長の君のイメージが台無しじゃないか。それにあいにく”僕のじゃないビデオ”の女優は何も着ていないことが多いんだ」

彼の声が・・・掠れている。

「あら、全国不眠症友の会会長のあなたが先入観で人を判断するとはガッカリだわ。エリザベス女王だって黒いランジェリーくらい着けるのよ。
で？あなたは眠れない夜に”あなたのじゃないビデオ”の女優の裸に飽きたら全国優等生協会会長の私に電話してくるってわけね？」

まるでティーンエイジャーカップルの喧嘩のような会話を続けながら、お互いの心の中で何かがくすぶっているのがわかる。

それでも私はMulderと普通の会話をすることが好きだった。
嘘や真実や陰謀についてなどではなく、ただ笑ってやり過ごせるような類の他愛ない話を彼とするのは楽しい。
雑学王の彼はその知識を惜しげもなく、そして控えめに披露してくれるし、私が望めば寝る前のお話 −幽霊屋敷のモーリスとライダのような− だってしてくれる。
私だけのMulder図書館は年中無休なのだから。

こうして夜中に電話でおしゃべりするMulderは、楽しくて明るくてスマートで、そしてなにより人懐こい普通の男性だ。
FBIで噂されるようなSpookyでもないし、殻に閉じこもった変人でもない。
しかしながら、彼はどこにでもいる普通の男性ではない。
明らかに違う。
やはり、彼は特別なのだ。

彼の偏見のない心や想像力、枠にとらわれない自由な発想、そしてそれを隠そうとはしない彼の勇気が、彼を特別な人にしている。
そしてそれは、ときとして常識のなかで生きている者たちに眉をひそめさせ、彼を孤立させる。
それは彼に対する憧れの裏返し。
私を含めた常識という囲いの中から出る勇気のない者たちにとって、彼は脅威であるけれど、ある種の憧れでもあるはずだ。
少なくとも私は、彼の情熱や信じる勇気を尊敬し、強く憧れている。

「Scully」

「なに？」

「不眠症の君の相棒がいつも迷惑をかけて申し訳ない」

私は両目をまん丸に見開いた。

「・・・Mulder、その言葉、日記に書いておくからもう1度言ってみて」

「明日は久しぶりに休みの土曜だし、君はきっととっくにベッドに入っただろうとは思ってたんだ。そして今日こそは君の眠りを邪魔するのはよそうと思ってたし、ついさっきまでそうできると信じてたんだ。
でも、こうやって君に電話してしまうのはなんでかな」

受話器の先の彼が大きくため息を吐いた。

「Mulder、私は夜中にあなたとこんなふうに他愛のない話をするのが、けっこう気に入っているわ」

「話したいことは他にあるのに？」

「え？」

「わざと遠まわしな表現で、気づかないふりで、お互いの言葉の裏に隠された暗号を読むことを君が気に入っているとは思えないな。しかも、面倒なことにきまって深夜にさ」

「Mulder、私はあなたとの会話に暗号なんて隠していないわ。ただ、普通におしゃべりしたり、笑ったりする時間が楽しいと思っているだけよ」

それは私の正直な想いであり、ほんの少し嘘だった。
突然のMulderの言葉に私は戸惑い、そして傷ついている。
週末の夜、どうして彼は穏やかな時間を過ごそうとしないのだろう。
そう望めば手に入る、ささやかで貴重な平穏を、どうして彼は自分から壊しにかかるのか。
そして彼の危険な情熱は、いつでも私を巻き込んでいく。

「君は、たぶんそうなんだろうな。暗号を隠してるつもりなのは僕の方だ。暗号なんて、気づかれて解読されなきゃ意味がないのにさ」

「Mulder、今は議論をしたくないの。なにか話したいことがあるのなら、月曜の朝にオフィスでできるわ」

彼が議論をしようとしているわけではないことはわかっていた。
私はただ、彼の言葉に怯んだのだと思う。
突然自らガードを下げてしまったような彼にたじろいで、とにかくこの場から逃げだしたかった。

私の話し相手が黙り込んでしまったため、受話器を通して彼の部屋のTVの音がはっきりと聞き取れた。
映画だ。
女優の大げさな悲鳴からすると、彼のお気に入りのB級ホラー映画。
あの映画を監督したのは、たしかエド・ウッド。
映画を愛し、夢を追い続け、”史上最低の映画監督”といわれた男。
彼の生きざまは、なんとなくMulderを思い出させる。
映画を純粋に愛しながらも、監督した作品がヒットすることもなく、絶望の果てにアルコール中毒で亡くなったエド・ウッドは、それでも彼の死後にカルト的な人気を得た。
そしてなにより、彼には"妻"という最大の理解者がいた。

Mulderは？
彼の情熱や生き方、努力は、遠い未来にでも誰かに認められる日が来るのだろうか。
そして彼を理解し、受け入れ、支える存在は・・・。

そこで私はある考えに思いあたる。
Mulderの心配をしている場合ではないわ。
もしかすると、エド・ウッドに似ているのは彼ではなく、私なのかもしれなかった。
エド・ウッドの狂気じみた映画への想いは、私の中の信仰とも通じるものがあるのかもしれない。
何かを本気で信じるということは、どこか常軌を逸してしまう部分がある。
唇が奇妙にひきつって苦い笑いがこみあげた。

「Scully」

Mulderが長い沈黙を破った。

「『白鯨』のモービー・ディックは、悪魔のように凶暴な人食いクジラなのか、それとも人間が追い求めながらも手の届かない宝なのか、どっちだと思う？」

Mulderは用心深く話題を変えてきた。

「さぁ、どっちかしら。でも、あのクジラが悪魔でも宝でも、それに固執したエイハブ船長は他の乗組員を巻き込んで破滅したのよ。結果は同じだわ。あのクジラのせいで義足になり、モービー・ディックに執拗に執着したエイハブだけど、たとえ彼が義足を使う体ではなくても、きっと彼はクジラに代わる何かを見つけていたと思うわ。彼が執着できるなにか・・・」

「Scully」

彼がけん制するような声で私の言葉をさえぎった。

「”運命”なんて言いださないでくれよ？すべてのことが生まれる前から定まっていて、空の上の誰かさんの思い通りに動いてるなんて考えはごめんなんだ」

「そんなことを言うつもりはないわ。ただ、あなたが始めた話にのってあげただけよ」

「それはどうも」

Mulderの低いクスクス笑いが聞こえた。

「...ねぇ、Mulder、エッシャーが描いた天使と悪魔の絵を知っている？」

「あぁ、たしか天使と悪魔で隙間なく平面を埋めた、平面の正則分割と呼ばれるものだろう？」

OK。
Mulderが知らないことがあるとすれば、きっとそれは私の靴のサイズくらいなものだわ。

「あの絵を見たときに、悪魔で覆いつくされた地獄が見えてきたら、悪魔の隣りにいる天使を探せばいいの。運良く天使だけが浮き上がって見えてきたら・・・そのときには悪魔を探すのはやめるのよ」

「Scully、その言葉はピンでおでこに留めておくべき？それともタトゥーにしてお尻に入れるべきかな？その場合、右かな？それとも左？・・・つまり、タトゥーを入れる場所のことだけど」

ニヤニヤ笑いを浮かべたMulderの顔が見えるようだった。

「Mulder、黙って」

「了解、ボス」

「それから、タトゥーはお尻に入れても意味がないでしょう？あなたが読めるように”前”に入れるのよ。」

「...かしこまりました、女王陛下」

Mulderがうやうやしく答える。
でも、私は知っている。
エッシャーによって描かれた天使と悪魔で埋め尽くされた宇宙。
そのどちらかだけを見ずにいることなんて、Mulderにできるわけがないのだ。

危険すぎるほどに近づいた2人の距離は、いつの間にか安全な定位置に戻った。
でも、彼はガードを下げたままだ。
今の私は、武装を解いた彼の傷つきやすい内部へと自由に入ることを許された。
それは、私のほんの少しの攻撃で、彼にとどめを刺すことだってできることを意味する。
彼は私に心をさしだしてくれている。
そのことは自分が全能の神になったような気分にさせた。
なぜなら、いま私の前に跪いているのは、あのFox Mulderなのだから。
私が『つま先にキスをして』と言ったなら、彼はあのふっくらと弾力のある唇を私のつま先に押し当てるだろうか。
目を閉じてその光景を思い描きながら、私はMulderに問いかける。

「Mulder、『白鯨』のあのクジラについて、あなたはどう思うの？悪魔だと思う？それとも宝？」

「僕は・・・あの凶暴なクジラは手の届かない宝だと思うよ。どんなに強く願って手を伸ばしても、手に入れることのできない宝。突然目の前に現れて、今度こそと確信しても一瞬後には消えている。そんな宝だと思う」

彼の声に焦がれるようなトーンが混ざった。

「Scully、エイハブがもう少しスターバックに心を開き、彼の意見に耳を貸していたら、結末は違っていたかな」

「どうかしら。やってみないとわからないわ。私は運命論者ではないもの」

再びMulderのクスクス笑いが私の耳をくすぐった。
なんて心地良い笑い声だろう。
そこで初めて気がついた。
彼のクスクス笑いにつられるように、私も笑いだしている。
彼の声に私の声が重なって、心地良いハーモニーを奏でていた。

もしかすると彼は、いつのまにか2人でコツコツと築いてしまった醜い壁を壊そうとしているのだろうか。

夜中の電話は悪い知らせばかりとは限らない。
不眠症で電話魔の相棒が、すこしくたびれた眠そうな声で、魅力的な笑い声を聞かせてくれることもある。

受話器の先ではMulderが『UFOはブラシ放電をおこして発光した夜行性の昆虫の大群である』という説の信憑性について語りはじめた。
私の唇は無意識に三日月の形を作り、彼の声を聞きながら自分が微笑んでいることを知るのだ。

- end -

タイムラインがあちらこちらで本編と前後しますが、これは私の頭の中のXFを書き綴っただけのお話ですので、適当な部分はどうぞお許しください。

yuria