あまり広くはないモーテルの1室。
白い朝の光の中で、Mulderは傍らで眠るScullyをじっと見つめていた。
彼の長い指先が、彼女の額にかかる髪を優しく払った。

ScullyはMulderの胸に鼻をすりよせ、彼の香りの中で夢を見ていた。
夢の中で彼らの息子、Williamは見知らぬ部屋のゆらゆら揺れるゆりかごの中で眠っている。

その部屋に見覚えはないが、そこはScullyにとって安心できる、どこか懐かしい場所のような気がした。
Scullyは眠るWilliamにゆっくりと近づき、ゆりかごから彼を抱き上げるとしっかり抱きしめた。

柔らかい感触と懐かしい香り、そしてずっしりとしたWilliamの重みを感じ、
彼女は慈愛に満ちた表情でしばらく息子を見つめると、その可愛らしい額に優しく唇をよせ
柔らかい彼の頬に何度も何度も頬ずりをした。

彼女の瞳からは美しい涙が後から後から零れ落ちた。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

モーテルのベッドでScullyが目を覚ますと、バスルームでMulderが使うシャワーの音が薄い壁を通して低く絶え間なく部屋に響いていた。
薄いカーテンから射す朝の光がベッドに複雑な模様を描いている。

ヘッドボードの壁には古びた額に入ったどこかの港の風景画が飾られていたが、
それもこの部屋の殺風景な雰囲気にはさして影響はなかった。

ベッドの隣には壁に向かって簡素な椅子とテーブルが１組、窮屈そうに置かれていて、
そのテーブルの上にはMulderの腕時計が無造作に転がっていた。

Mulder・・・。

Scullyはベッドの右側 ― Mulderが使った側 ― の寝乱れたシーツにそっと手を伸ばし
昨夜の余韻を確かめるように、シーツの海へとすぅっと指先を滑らせた。

そこに残る微かな彼の香りと温もりは、昨夜のMulderは幻ではなかったのだと彼女に教えていた。
それでも今ここに、Scullyの目の前に彼の姿がないことは彼女をひどく怯えさせた。

Scullyの体を圧倒的な存在感で駆け抜けた彼がベッドからいなくなっただけで、そこは突然に現実感をなくし
部屋の中の何もかもが居心地の悪い安っぽい作り物であるかのように感じられた。

彼が視界から消えただけで、世界が芯をなくしたように歪んで見えた。

それは危険なことだとScullyは考えた。

Mulderを彼女の世界の中心にしてはいけない。

彼女はいつも誰にも頼ることなく自分の足で立ち、自分の足で歩いてきた。

そのバランスを崩してはいけない。

もちろん、と彼女は考えを声に出した。

彼女が頼めば、もちろん彼は喜んで彼女の重荷をも背負ってくれるだろう。

彼は背負いきれないほどの彼自身の重荷を抱えているにもかかわらず、それでも軽々と彼女の荷物を持ち上げ、
空いているほうの手を彼女へと差し出すことさえするかもしれない。

にっこりと微笑んで。

こんなことはなんでもないよ、とでも言うように。

なにもかもを忘れさせてくれるような、あの眼差しで。

瞬きをしたひょうしにこぼれた涙で、自分が泣いていることに気がついた。

彼女は疲れ果てていた。

このまま彼の腕の中に守られて、すべての決断を彼に委ねてしまいたい。
大きな圧力となって絶えず彼女にのしかかる責任や恐れから逃れて楽になりたい。

らしくない考えだと知りながらも、Scullyは自分の心を奮い立たせる術を今は知らなかった。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

けして高級とは言えないが清潔な白いタオルで髪をふきながらシャワーから出てきたMulderの目に飛び込んだのは、
2サイズは大きい白のコットンのTシャツにスウェットを着てベッドに座り、ぼんやりと窓の外を眺めているScullyの姿だった。

大きなベッドの隅に座る小さな彼女の姿は儚げな真っ白な羽のように頼りなく、いまにもフワフワと空へと舞い上がってしまいそうだった。

Mulderはそんな彼女の様子にショックを受けたように動きを止め、言葉もなくただ彼女を見つめていたが
しばらくためらった後、彼女を現実の世界に引き止めておくために声をかけずにはいられなかった。
それでも不用意に声をかけて彼女を驚かせたくはなかったので、声のトーンには細心の注意を払う。

「Scully、大丈夫か？」

さりげなく柔らかい声を出したつもりが、そこには正直すぎる不安と心配が入り込んでしまっていた。
それに対して合言葉であるかのようないつものお決まりの返事は、今回彼女の口からは聞くことができなかった。

それがいっそうMulderの不安を大きくした。

振り向いた彼女の物憂げな視線はしばらく彼の体の上を彷徨うと、用心深く彼女を見つめる彼の質問に答える代りに1つため息を吐いた。
そして自分の小さな素足へと目を落とすと疲れた声で話し始めた。

「あなたはWilliamに会わなければいけないわ。
Mulder、Williamはあなたがいない間にとても大きくなったの。
重くなったし、声を上げてよく笑うのよ。動く物を興味深くあきずにじっと見つめるわ。
あなたの金魚をいつも２人で見ていたの．．．。
瞳はあなたにそっくりで、笑い声はとてもかわいくて、小さな５本の指は力強く私の指を握るわ。
・・・あなたにはWilliamをその手に抱く権利があるのよ。そう、権利が、あったの」

一筋の涙がScullyの頬を伝い、まるでそれが合図でもあるかのようにMulderはベッドへと歩み寄り、
Scullyの隣に腰を下ろして彼女を自分の胸に引き寄せた。

小さな彼女はすっぽりと彼の顎の下におさまってしまった。

シャワーから出たばかりのMulderのほてった肌に、涙に濡れた彼女の頬はひやりと冷たかった。
そして彼はあることを彼女に告げるため、乾いた唇を素早く舌で湿らせて喉仏を上下させた。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

「Scully、大丈夫か？」

いつのまにかシャワーから戻ったMulderの声で、Scullyはふいに現実に引き戻された。

振り向いた先の彼は、シャンプー後の濡れた栗色の髪を乱し、額に落ちた前髪のせいで９年前に出会った頃の彼を思い出させた。

彼の髪の色がいつもより少し黒く見えるのは、濡れているせいだろうか。

彼の引き締まった肩から腕へと続く筋肉や、まっすぐな鎖骨のあたりには水滴が光っていた。

ジーンズのウエストのボタンを外している彼を見て、どこまでも縛られるのが嫌いな人だ、などとボンヤリ考える。

削げ落ちたような頬のラインや充分すぎるジーンズの緩みから、会わない間に彼の体重がかなり落ちたことがわかった。

Scullyはバスルームから素足でペタペタと歩いてきたMulderの足を見て、
彼の完璧なくるぶしとアキレス腱がジーンズの下に隠れてしまっていることを残念に思った。

Mulderの足首はすごくセクシーなのに。

やけに遠いところで現実感のない自分が考える。

まるで重い心をおきざりにして、思考だけが遠くへと彷徨っているような感じだった。

それでも視界にMulderを捉えたことで、この部屋のすべてが色を取り戻したようだった。

頼りなく歪んでしまったこの部屋の軸を、彼は事もなげにただの一瞬で正常な位置に戻した。

カチリとその時の音が聞こえたような気さえした。

Scullyの意思に反していたが、彼女は嫌々ながら認めることにした。
確かにここが、この安モーテルの狭苦しいこの部屋が、今の彼女にとっては世界の中心なのだということを。

―― 違う、そうではない ――

彼女の世界の中心が、今まさにこの部屋へと入ってきたのだ。
少年のような髪をして、琥珀に輝く素肌を無防備にさらし、気遣わしげな視線を彼女へと送りながら。

Mulder・・・。

彼女は小さくため息を吐いた。

視線を落とすと、そこには自分の小さな素足があった。

Mulderと共に不屈の精神で歩き続けた力強い足のはずが、なぜかとても白くて小さく、ひどく頼りないものに見えた。
そしてScullyの足の爪の形 ― 幅が狭く丸みをおびている ― は、完璧にWilliamへと受け継がれていた。

- William -

William・・・彼女の息子。

結局彼女の思考は、そこへと辿りつく。

自分でも気づかぬうちに、ひとりでに唇から言葉があふれた。

自分が泣いていることに、まるで他人事のように気がついた。

彼女の涙を見たMulderはとても辛そうな顔で小さく首を2〜3度横に振ると、ゆっくりとScullyに近づき、隣に座った。
そして昔と少しも変わらない無言の優しさで彼女を引き寄せ、彼の腕の中に大切にしまいこんだ。

ScullyはMulderの胸に頬を寄せながら、恋人達がつけるハートのネックレスを思い出していた。
半分になったハートがピタリと隙間なく合う、あのネックレスだ。

Mulderといると収まるべきところに収まっている、そんな不思議な安心感がある。
これが自分にとって正しいことであり、２人のあるべき姿なのだという実感もある。

それは久しくScullyが忘れていた気持ちだった。

ScullyはMulderがゴクリと唾を飲み込んだのを体で感じた。
そして彼女はMulderがなにかを言おうとしていることを敏感に感じとっていた。
彼の背中の筋肉がこわばって彼の緊張が彼女にも伝わってくる。

『Mulder、力を抜いて。もっとリラックスしていいのよ』

Scullyは彼に、そう声をかけてやりたかった。

『あなたから何を聞いたとしても、私はもう驚かないし、驚けない。悲しむことさえ、きっとできないだろうから』

正直で嘘のない言葉だったが、Mulderはきっとそんな言葉は聞きたくないだろうと思った。
それと同じように、ScullyもこれからMulderが話そうとしていることを聞きたくはなかった。

嘘のない言葉は、ときとしてひどく心に痛い。

- William -

感情を失くしてしまった心が、またその名を呼んだ。

「William」

心の声とMulderの声が重なって、Scullyは彼の腕の中でビクリと体を震わせた。

「君の心は、息をするのと同じくらい無意識に、いつもこの名を呼んでいるだろう？」

Mulderの声は、低くかすれてひび割れていた。

「そして君の心は、Williamを手離したことを、まるで君だけの責任のように感じている」

Mulderはそこで言葉を切るとScullyの体を軽く離し、彼女の蒼い瞳を覗き込んだ。

昔と同じように少しだけ顎を引いて、まっすぐに瞳を合わせてくるMulderに
すべてを見透かされてしまいそうで彼女は無意識に瞳を伏せた。

「いいかいScully、よく聞くんだ」

Mulderはうつむいた彼女の顎を優しく指で上向けると再び瞳を合わせた。

彼の瞳はまるで彼自身のようにミステリアスだった。
ある時は、激しい感情とほとばしる情熱の炎を危険なほど真っすぐにぶつけて周りの者を巻き込むこともいとわない。
そしてある時は、波１つない夜の湖のように穏やかで静まり返っている。

今は美しいシルバーの湖だ。

Scullyはその時々で色と表情を変える彼の瞳に捉えられると、催眠術にかかったようにそれから逃れることはできなかった。

「あれは君だけの責任じゃない。
僕は、あのときDCを去るべきではなかった。君たちの傍にいるべきだったんだ。
君がこの僕に、すべての責任を君に背負わせて1人で行方をくらませたこの僕に
罪悪感を持つ必要なんて、これっぽっちもないんだよ」

Mulderは子供が好きだ。

彼が子供に接する態度やその眼差しを見ればすぐにわかる。
そして固定観念にとらわれず真っすぐに真実を見つめる彼は、小さな子供と動物には絶大な人気があった。

それは、Mulderが生きていくために身につけた自己防衛の武装を彼らの前ではすっかり解いて
ありのままの彼を差し出すからだろうか。
それともMulderは数少ない信用できる大人であるということを、彼らの本能が嗅ぎわけるのか・・・。

そんな彼がたった一人で、死ぬほど孤独な逃亡生活を過ごしていたときに、何にすがり、誰を生きる希望としていたか、
Scullyには痛いほどわかっていた。

わかりすぎるほどに、わかっていた。

Williamはすべてを失った彼に残された、たった一人の血をわけた新しい家族だったのだ。
気が遠くなりそうに孤独な暗闇を照らす彼のただ１つの光であり、彼に正気を保たせるただ１つの希望だったはずなのだ。

Mulderが初めてWilliamを抱いたときの眼差しをScullyはまるで昨日のことのように思い出すことが出来た。
それは、まさに奇跡を目の当たりにした男の瞳のように、畏れと驚きと喜びが複雑に混ざり合っていた。

それなのに理由はどうあれScullyがWilliamを、Mulderの唯一の希望を、
彼の帰りを待たずに手離さなければならなかったことを彼は責めるどころか、それさえも自分に非があると思い込んでいる。

そんな彼の優しさとも傲慢さともとれる態度に１つため息をもらし、Scullyはこう告げた。

「違うわ、Mulder。あれは私１人の判断でしたことよ。自分がしていないことにまで責任を感じる癖は、そろそろ直した方がいいわ」

静かに、しかしきっぱりとそう言い切るScullyに、Mulderはやれやれと苦しげな笑みで唇を歪めながらも
そうだ、自分は彼女のこういう部分を昔から限りなく愛し、尊敬しているのだと思いあたった。
疲れきって今にも崩れてしまいそうに見える彼女の中に昔と変わらぬ強さを見つけ、懐かしさで涙がでそうだった。

そして、彼は心を決め、喉に詰まった塊を飲み下した。

「Scully、君に話しておきたいことがある」

唐突に話し始めたMulderの声に、Scullyは体を硬くした。

「ええそうでしょう、あなたが私に話さなければいけないことはきっと山ほどあるはずね」

皮肉な言葉とは裏腹に彼女の声は弱々しく力がなかった。

これ以上秘密など聞きたくはない。これ以上悲しい真実など手に入れたくはなかった。

Scullyは耳を塞いでしまいたい衝動をおさえるのが精一杯だった。

「大丈夫だScully、怖がらなくていい。君をがっかりさせるかもしれないが、それほどひどい話ではないはずだ。
でもこのことを話すのは、僕にとっては少しばかり勇気がいることなんだ」

そこまで言うとMulderは１つ大きく息を吸った。
そしてScullyと目を合わせるために顎をひいて彼女の顔を見上げ、乾いた唇を舌で湿らせた。

「Scully、僕は今まで真実を追いかけてきた。僕にとって真実の追究は、他のなによりも優先されるべきもので、
他の何よりも大切なもので、他の何よりも必要なもので、それに比べたら僕の命なんか比較にならないくらいだ」

ScullyはMulderの視線を受け止めて悲しそうに首をふり、何か言いたげに唇を開いたが、それを飲み込んだ。
正確には、それについていつものようにMulderを諭す気力が彼女にはなかった。

「それでも今は思うんだ」Mulderは続ける。

「WilliamやSamanthaだけじゃなく、たとえば何処かの国の数学教師や何処かの国の大統領、
何処かの国でダンボールにくるまって眠る公園の住人、何処かの国の街角で物乞いをする子供。
その地位や肌の色は違っても彼ら一人一人の命は、どんな真実、どんな革命、どんな信念、
どんな素晴らしいアイデアよりも大きくて重いはずなんだ。
誰かの犠牲の上に成り立つ真実や信念、いったいそれに何の価値がある？」

Mulderの声のトーンは、いつもよりほんの少し高いような気がした。
数秒の沈黙の後、探るようにぼんやりと揺らめいていたScullyの瞳が突然すべてを悟ったかのようにMulderに焦点を合わせた。

「・・・あきらめるっていうの？ここまできて、あなたは全てをあきらめるっていうの？
家族も、キャリアも、何もかもをなくして、あなたはその信念まで手離すっていうの？」

信じられないというように瞳を大きく見開いたScullyの声は静かなものだったが、
その言葉の奥にはあきらかに失望と隠しきれない非難の響きが含まれていた。

「信念を手離すとは言ってない。僕の中での優先順位を変えるんだ」

感情を巧みに隠した低い声で、用心深くMulderが答えた。

「同じことだわ。あなたはきっと後悔する。私はそんなあなたを見たくはないし、その原因の1つにもなりたくはない。
糖尿病患者がインシュリンの注射を必要とするように、心臓病患者がニトロ製剤を必要とするように、
Mulder、あなたには真実と信念が必要なの。
それを失くしたFox Mulderは、私の愛したMulderではないわ」

Scullyは、いつもどんなときでもScullyだ。
心の中でそう呟くとMulderは軽く顔を背け、その横顔に苦しげな笑顔を浮かべて目を伏せた。

Scullyは自分の言葉が彼の心の一番深い部分にダメージを与えたことを自覚していたが、
言葉をオブラートに包むのは彼女の流儀ではなかった。

そしてそれはMulderの流儀でもないはずだった。

パンチを食らったボクサーが目を閉じて痛みをやり過ごすように、Mulderは辛そうにしばらく瞳を伏せていたが、
彼は勇敢にも視線を上げ、グレイがかったブラウンの瞳はまっすぐにScullyを見つめ返した。

「君のおかげで、君に愛されたことで、僕は少しずつ変われたんだと思う。
その結果君が僕を愛せなくなったと言うのなら、それは仕方のないことだ。そのことについて僕は何かを言う権利も資格もない」

そう言いながらもMulderの瞳は苦しげに、しかしはっきりとただ一つのことを語っていた。

“君を愛してる・・・僕を愛して”

Mulderを愛せなくなる日、そんな日はたとえこの世界が終わっても来ることはないと確信しながらも、
Scullyはこの辛い議論を止める気はなかった。

Mulderを守るため、彼の心が壊れる日が来ないために。

Scullyはそれを証明してみせるため、彼の腕の中で背筋をピンと伸ばした。
真実を求める情熱と信念を失くしたら、彼はきっと生きてはいけない。
それでもMulderの熱をもったような瞳は、痛いほど強く真っ直ぐにScullyをとらえて離さなかった。

「唯一僕が言えること、それは僕に今必要なのは、君とWilliam。あとはなにもいらないってことだけだ。
WilliamだScully。彼が最初に話す言葉は“ママ”で、Scully、それは君のことだよ。
彼をこの手に取り戻したら、あとのことはそれから考える。FBIにいた頃にはできなかったアプローチの方法がきっとあるよ」

「きっとあるって・・・いったいどんな根拠があってそんなことが言えるの？いつからあなたはそんなに楽観主義者になったの？
それにMulder、間違えないで。Williamはあなたの妹さんとは違う。誰かに誘拐されたわけではないわ。
私が決めたことよ、彼を守るために」

Mulderが何か言おうとしたがScullyは彼にそのチャンスを与えなかった。

「私は・・・私は、もう繰り返したくはない」

Mulderが眉だけでScullyに先を促した。

「彼女を失ったように、Williamをも失いたくはないの」

「Emily・・・か」

Mulderの問いにScullyが小さく肯くのをみて、彼は固く目を閉じると奥歯を噛みしめた。
あれほど強く子供を望んでいた彼女が2度も子供を失うなんて、そんなことあっていいわけがない。

絶対に、あっていいわけがない。

「Williamが生きてさえいてくれたら、今はそれでいいの」

消え入りそうな彼女の声がMulderの心をしめつけた。

世界を救おうというのではない。
この世の中でたった２人。
自分の命と引き替えてもかまわないほど大切に思うたった２人の人間すら、自分は救うことができない。

家族を救えない人間に、どうして世界が救えるというんだ。

Scullyの肩を抱く彼の両手に思わず力が入った。

「Scully、君は呆れるかもしれないけど、僕は何かとても大切な選択をするときに・・・なんて言えばいいか
ある種の“直感”みたいなものを感じるんだ。ほとんど“確信”と言ってもいい。頭で考える前に心の奥では答えが決まっている。
なぜかはわからないけど、心が僕に知らせるんだ。
愚かで馬鹿げていると君には言われるかもしれないが、僕は心の声を無視できない」

そう語る彼の声は誠実で真摯で正直で、今の彼なら大統領だって説得してしまえそうだった。
しかし彼はふいに声のトーンを変え、懐かしそうな笑い声をもらした。

Scullyはいつの間にかこの議論がすっかりMulderのペースになってしまっていることを意識しながらも
トーンを変えた彼の密やかな低い声は親密で、とても心地よいと思った。

「僕の直感はジャージーデビルや蛾男や、その他もろもろのモンスターにだけ向けられるものじゃないぞ」

「そうね、根拠も証拠もあなたには必要ないのよね」

Mulderにつられて微かに微笑んでいるかのようなScullyのその声には、不思議なほど皮肉の響きは感じられなかった。
そこにあるのは彼への限りない優しさと、ある種のあきらめ・・・かもしれなかった。

そんなScullyの様子にMulderの親密な笑顔はとまどいのそれへと変わった。
大きな不安の塊が彼の体の奥から湧き上がるのを感じたが、彼は無理やりそれを飲み下した。

怒ることも、笑うことも、泣くこともしない。

Scullyはすべての感情を閉じ込めてしまっていた。

――― どうしたっていうんだ、Scully ―――

感情を押し込めた抑揚のない彼女の声は、Mulderの不安をさらに大きくした。

「でも、私はあなたを守るためにどうしてもそれが欲しかった。それがあなたを守る唯一の手段だと思ったからよ。
でも今は、もうそれもどうでもいいことだわ。だとしたら、今の私があなたのためにできることは何もない」

そう、Mulderの直感にはいつも根拠や証拠はない。それでも彼が真実から遠く離れてしまうことはなかった。
むしろそれはより近く、彼を真実へと導くのだ。

そしてその真実を周囲も認めざるをえない確固としたものとするためにScullyは奔走していた。
科学に基づいた、誰も異を唱えることのできない証拠。
それこそが天才的なひらめきを持つMulderの背中を支える唯一のものだとScullyは信じていた。

しかし今の彼女は、あまりにも疲れ切っていた。

彼女にとってあれほど大切だった科学も証拠も、今はどこか遠くへと押しやって、
胎児のように丸くなったまま心を閉ざしてしまいたかった。

微かに眉をひそめたMulderは、途方に暮れたような視線をモーテルの壁に投げると苦しげに目を伏せた。
そして再びScullyを彼の腕の中へと抱き寄せて、彼女の頭にそっと顎を乗せ、彼女をすっかり包み込んだ。

彼の抱擁はとても切なく悲しげで、彼の心臓から彼自身を責める声が聞こえてきそうだった。
Scullyは彼の顔を胸に抱いて髪を撫でながら『違うの。あなたが悪いわけではないわ』と優しく宥めてあげたかったが
今の彼女は力なくMulderの胸にもたれかかり、長い睫毛を伏せることしかできなかった。

「Scully、僕は今でも真実を求めているし、僕の信念は揺るがない。情熱も怒りも、変わらずにこの胸の中にある。
それでも君と離れて暮らしている間に、僕は少し考えを変えた。
僕が朝目覚める理由、忘れずに呼吸をし続ける理由、それがはっきりとわかったんだ。
君とWilliamは隠された真実を暴くことよりもずっと大切だ。世界を救うのは、それからでも遅くはないさ」

Scullyは彼の腕の中で、薄くて小さいその体を彼の胸へとすり寄せた。

「Mulder、あなたを失ったと思ったとき、孤独と絶望のなかでも朝になればいつものように日が昇ることが不思議だった。
まるで鏡の中の世界に迷い込んだようで、すべて同じようでも全部があべこべに見える世界。
私は今もその世界から抜け出せずにいる。私はもうきっと笑えないわ。
あなたを守ることも、救うことも、支えることすら、今の私にはできない」

「笑えない時には無理に笑わなくていい。そんな必要はないよ」

Mulderの低い声は、彼の喉と胸を震わせてScullyの心に直接響いた。
なんと心地よい響き。甘く懐かしいテノール。
Scullyはその声を味わうようにしっかりと瞳を閉じた。

MulderはScullyの体をほんの一瞬彼の胸の中から離し、次の瞬間、彼女の背中からしっかりと腕を回して抱きしめた。
まるで少しでも手を離すと彼女が消えてなくなってしまうとでも思っているかのように。
そしてほっそりとした彼女の肩に顔をうずめ、くぐもった声で話しはじめた。

「君が誰も救えないなんて、そんなこと絶対ないさ。
君に会う前までは、こんな気持ちになったことなんかなかった。虚勢をはりながらも心の中で僕はいつもおびえてたんだ。
自分はいつか突然気が狂うんじゃないか、モンスターと対峙するうちに、自分がそのモンスターになっているんじゃないかって。
でも、君がひとつひとつ教えてくれたんだよ。本当の僕がどんな人間なのかってことを。
君がそこにいてくれることで、少なくとも僕はこんなに救われてるんだ」

Mulderは消え入りそうな声で最後の言葉をつぶやくと、Scullyの小さな傷跡が残る白い首筋に彼の唇をそっと押しあてた。

それは何かを求めるキスではなく、すべてを与えるキス。

Scullyの瞳から静かに涙が零れ落ちた。首筋が温かい。
そこからMulderの勇気と力が流れ込んで、Scullyの血管を通して体中をかけめぐるようだった。

彼女の背中を守るように抱きしめるMulderは、どこまでも優しく静かで温かかった。
あとからあとからあふれる涙を堪えるためにScullyは体をこわばらせ、嗚咽を必死にこらえて背中が小刻みに震えていた。
それでもScullyの意に反して小さな吐息にも似た短い声が彼女の唇から絶えずもれていた。

「Scully、声を出して泣いていいんだよ」

Scullyは、Mulderの声とも息ともつかぬ囁きに頑なに首を横にふった。

「だめ。私はもっと強くならなきゃいけないのよ。あの子のために」

「もういいよ、Scully。君は十分一人で頑張った。もう泣いていいよ。僕の前でなら大丈夫だ」

Mulderに背中から抱きすくめられたまま、Scullyはピタリと動きを止めた。
息をするのもやめてしまったかのようだった。

Mulderは彼女の赤い髪に顔を埋めて懇願するように囁いた。

「君を助けたいんだ。君の役に立ちたい。力になりたい。頼むよ、どうか僕に手伝わせてくれ」

彼の言葉でScullyの中の何かがはじけた。

彼女はMulderの腕の中で振り向くと彼の背中にしがみつくように両手をまわし、
2〜3度痙攣したように不規則に息を吸い込むと、今まで彼が聞いたこともないような声で激しく泣きはじめた。

「そうだ、Scully。それでいい。ダムが時々水を放流するように、長い間心の奥にため込んだ感情は吐き出さなきゃいけない。
そうでないと心にヒビが入ってしまう。君が壊れてしまうよ」

MulderはScullyをしっかりと抱きしめて、子供をあやすようにゆっくり揺らした。
そして温かい手のひらで彼女の背中に大きく円を描くように撫でながら、耳元で囁き続けた。

「Scully、もう大丈夫だ。大丈夫・・・大丈夫」

彼女の感情は大きなうねりとなって爆発し、そして少しずつゆっくりと落ち着きを取り戻した。
どのくらい経っただろうか、浅く不規則だった呼吸は、深く静かなものとなった。
Mulderは彼女のウエストに手を回して耳元に囁いた。

「Scully、僕はWilliamをあきらめない。絶対にあきらめないよ」

耳元にかかる彼の吐息と強い意志を持った低い声は、彼女の髪を揺らすと同時に体の内部を震わせた。

「僕があきらめの悪い、かなりしつこい性格だってこと、覚えてる？」

少し声のトーンを変えて続けた彼に、Scullyは涙に濡れた彼女の頬を彼の胸に押しつけたまま、ふんと鼻を鳴らした。
そしてMulderの背中にしがみつくように回していた両手をいったん解くと、再び彼の腰にゆったりと巻きつけた。

そう、Mulderはあきらめない。

自分の命は信じられないほどにあっさりと手離そうとするくせに、彼が大切に思っている人たちのことはけしてあきらめない。

彼は愛するものに忠誠を尽くし、傷ついて血を流す彼の心を勇敢にも開いてみせ、それをゆだね、惜しげもなく捧げる。
さあ、僕の心と体を君にあげる。持っていって壊してもかまわないよと・・・。
彼に愛されるとはそういうことだ。

「そう・・・そうね、そうだったわ。あなたはあきらめることができない人。
けしてあきらめないのが、私の愛したFox Mulderね」

泣いたあと特有の鼻にかかった声で顔も上げずに囁いたScullyの吐息がMulderの胸をくすぐった。
ScullyはMulderの腰へと回した両手にきゅっと力を込めた。

微かに石鹸の香りを残した気持ちよく滑らかな彼の肌をとおして、引き締まった固い筋肉が感じられた。
そしてさらにその奥では、何１つ昔と変わらぬ彼の情熱と逞しい生命力がマグマのようにたぎっているのがわかる。

彼となら、Fox Mulderと一緒なら、すべてがうまくいくかもしれない。
なんの根拠もなしにScullyはそう思った。

彼女の声の調子から、Mulderは彼女が涙の奥でかすかに微笑んでいるのがわかった。
もう笑うことができないと言ったScullyは今、Mulderの腕の中でゆっくりと壊れた心を再生していた。
砕けた心のカケラをつなぎ合わせるのは、きっと“希望”だ。

“Mulder、あなたは人の力を信じているのよ”

Mulderは数年前、アポロのキーチェーンをScullyに贈ったときに彼女が言ったことを思い出していた。


そう、僕は信じてる。

明日へ向かう人の力を

誰かを守る人の力を

誰かを愛する人の力を

僕は信じているんだよ、Scully。

信じてるんだ。




　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　- end -

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最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

親となったMulderは、大人にならなければいけません。
父親として子供を守り、家族を守らなければいけません。
いつまでも自分のことばかりを優先していてはいけないのです。
自分の信念を貫くことや真実を暴くことよりも、家族を守ることこそが今の彼にとっては最優先事項です。
Ficの中でMulderが言った言葉
「家族を救えない人間に、どうして世界が救えるというんだ」
これは私の想いでもあります。
Mulderが自分の中での優先順位を変えたのは当然のことです。
だって私は母親ですし、親にとってどれほど子供の存在が大きいものかを知っています。
MulderもScullyも同じ想いだと思うのです。

それでもこのMulderは私の*モル*ではありません。
私はおさえられないほどの好奇心をもった子供じみたモルが大好きでした。
自分の信念、情熱、好奇心のためなら彼は命さえ差し出してしまいそうです。
愚かなことですが、私はそんなモルが大好きでした。
大人になりきれない、自分に正直で純粋でまっすぐな人。
目を離せばどこへ消えるかわからないような危うさを秘めた人。
心に大きな自由をもっている人。
そんなふうに少し困ったモルが大好きなのです。
彼には大人になってほしくない。
どうかそのままで、何にも縛られずにいてほしい。
そして私はそういうモルに、これからも憧れ続けたい。
そう思っています。

私にとって、どちらも本当の気持ちだけに複雑です・・・（苦笑）



yuria