5年前、僕はいつも彼女を見ていた。
小柄な体を白衣に包み、感情を抑えた冷静な声で検死解剖の授業は進む。
学生に解説している間にも、彼女の手は休むことなく遺体を正確に切り刻んでいく。
でも僕は知っていた。
彼女の冷静でプロフェッショナルな仮面の下にはいつも、遺体を敬い、
礼儀を尽くそうとする気持ちがあったことを。
そしてアイスクィーンと呼ばれたScully捜査官は、じつは驚くほど寛容で優しい心の持ち主だということを。

「アカデミーをあんなふうに去ることになって、あなたたちには本当に申し訳なかったと思ってるの」

目の前のScully捜査官は、辛そうに睫を伏せて、僕にとって意外な言葉を口にした。

「一番辛い思いをしたのはScully捜査官、あなたです。あなたが無事に回復され、
その後まもなく現場に復帰されたと聞いて少し心配もしましたが、さすが僕らのScully捜査官だとも思いました。
僕らはあなたの勇気が誇らしかった。みんな心からそう思っていたんですよ。
当時学生だった僕らは、ただあなたの無事を祈ることしかできなくて、自分たちの力のなさを痛感しました。
本当に情けなかった」

僕は拳を握りしめて続けた。

「Scully捜査官、僕はあなたの事件のあと、本気でFBI捜査官になりたいと思うようになったんです。
もちろんそれまでもいい加減な気持ちでアカデミーにいたわけではありませんが、
突然僕の前からあなたが消えたことで、どこか安穏とした学生生活は終わりました。
必死になった。僕が必ずあなたを探し出すんだと…。
でも、僕には間に合いませんでしたが」

「そんなふうに言ってもらえるとは思ってなかったから、なんて言えばいいのか言葉がみつからない」

Scully捜査官は俯いたまま両手で髪をかきあげた。

「あなたたちがアカデミーを卒業するまで見届けられなかった私は教官失格だと思ってる」

両手を赤く輝く髪にさし入れたまま、俯いて睫を伏せる彼女の顔を僕は下からのぞきこんで笑顔を見せた。

「まったく、あなたはなんにもわかってないんだな、Scully捜査官。
僕らはあなたからたくさんのことを学んだんですよ。
他の教官からは絶対に学べないことを教えてもらったんです。捜査官として感謝してます」

彼女は両肘をひざについて僕を見上げた。
ふいに彼女の蒼い瞳に見つめられて彼女との距離が急に縮まった気がした。

「John、私は特別なことは何もしていないわ。
教官として、あのときの私に出されていた課題を、ただこなしていただけだった。
恥ずかしいことだけれど、教えるというエネルギーや情熱は不足していたと思うわ」

「Scully捜査官、あなたが検死解剖の授業で僕らに語ったことを僕は今でも忘れません。
あなたは冷たいステンレスの台に横たわった男性の遺体を前に、こう言ったんですよ。
『彼はどんな人だったのかしら』と。
彼の夢、愛した人、彼が見て聞いたこと、思い出、そして恐怖、
それがこの小さな脳の中に刻まれているなんて不思議だと。
モルグには１日に何体もの身元不明者やホームレスなどの遺体が運ばれます。
でもその1人1人に、僕らと同じような夢があり、愛があり、恐怖があった。
1つ1つがかけがえのない命だった。あなたがそれを教えてくれたんです。
捜査官になっても、僕はそれをけっして忘れない」

「いい捜査官になったのね、John」

「あなたのおかげで」

僕は彼女にどうしても聞いておきたいことがあった。
そしてそのチャンスは、今以外にないだろうと決心した。

「個人的な質問をしてもいいですか、Scully捜査官？」

「質問の種類にもよるわね」

彼女は用心深く微笑んで僕に真っ直ぐな視線を返した。
僕は少々ひるんだが、唇をひとなめして質問を切り出した。

「5年前、あなたが被害者となった誘拐事件は、
局内ではMulder捜査官のガムシャラな捜査方法への警告だったとも囁かれています。
しかしあなたはまもなく仕事に復帰、しかもX-File課に復帰されました。
Scully捜査官、あなたは誘拐されたことへのトラウマはなかったですか？
そして、またX-File課に配属され、再びMulder捜査官とパートナーを組むことへの恐怖は？」

彼女の顔から微笑みはすっかり消えて、代わりに固い表情がはりついた。

「不躾な質問でした。すみません」

言ったそばから後悔した僕は、石のようにおし黙ってしまった彼女に頭を下げた。
気まずい沈黙はなおも続き、もうこれ以上1秒も耐えられないと思ったとき、彼女が重い口を開いた。

「どんな答えがほしいの、John？私は何を期待されているのかしら？
怖かったわ…とあなたの前で泣けとでも？」

言葉に反して静かな声で彼女は言った。

「もちろんそんなつもりはまったくありません。突然すみませんでした。忘れてください」

僕は彼女のさぐるような視線にさらされて、僕の内部のすべてを見透かされているような、
なぜか後ろめたい思いでうつむいた。
きっと僕は、本気で彼女に尋問されたら簡単に自白してしまうことだろう。
彼女の前では薄っぺらな嘘もごまかしも意味を持たないように思えた。

「あなたがそこまで踏み込んだ質問をするのだから、なにかあるのでしょう？私でよければ聞くわよ」

質問をしたはずの僕が、いつのまにか答える立場だ。
彼女の蒼い瞳に追いつめられた僕は、素早く唇をなめて、
干からびてしまったような喉に冷めたコーヒーをゴクリと流し込んだ。

「1年ほど前のことになります」

とうとう僕は覚悟を決めた。

「かねてからの希望だった凶悪犯罪課に配属されて2年ほどたった僕は、やっとチームのペースにも慣れて、
仕事にも自信が持てるようになった頃でした。
そのとき追っていたのは幼児ばかりを狙う残忍な殺人犯で、その事件の性質上マスコミにも大きくとりあげられました。
局の上層部としては、これ以上犯人逮捕に時間がかかればFBIの沽券に関わるという思いもあり、
凶悪犯罪課にはかなりの圧力がかけられました。
全員徹夜続きの毎日で、必死の捜査の結果、やっと容疑者の特定に成功、逮捕へと向かったときのことです」

僕はここで一呼吸おいた。
1年前のことだが、悪夢となって何度も僕の頭の中で繰り返されているため、
今も細部にわたって鮮明に状況がよみがえる。
彼女は僕の沈黙の邪魔をしようとはしなかった。
ただ僕の隣に静かに座り、励ますような眼差しを僕に向けた。
そんな彼女に勇気をもらったように僕は再び口を開く。

「容疑者の男が外出から帰るところを待ち伏せて、FBIと警官が男を取り囲み、
これでやっと事件解決だと誰もが思った瞬間、男は運悪く通りかかった女性を人質にとったのです。
僕のパートナーがとっさに２、３歩男に近づいたのと、
彼のすぐ後ろにいた僕が男に向けて引き金をひいたのは、ほとんど同時だったと思います。
銃弾はパートナーの背後から彼の背中を貫通し、その後、人質の女性の頭部に命中しました」

まるで目の前で上映されている映画を解説するようだった。僕はその映像から逃れるように目をきつく閉じた。
ひざの上で握りしめた僕の手に暖かい体温を感じて目を開けると、そこには彼女の蒼い瞳があり、
気づかぬうちに関節が白くなるほどきつく握りしめられた僕の手の上には、彼女の小さな手が柔らかく重ねられていた。
僕は少しの間息を整えるためにゆっくりとした呼吸を繰り返し、話を続けた。

「その瞬間、僕のパートナーは何かに強く前へ押されたように体を宙に浮かせ、ゆっくりと前へと倒れていきました。
スローモーションのようなその光景に、僕は声も出なかった。
そして視界の隅で、人質の女性が静かにくずおれ、捜査官たちが大声で何かを叫びながら
犯人の男を取り押さえるのを見ました。
背後で同僚が自分を呼ぶ声を聞いた気がするけれど、僕はただ倒れたパートナーを呆然と見つめたまま
一歩も動けませんでした。
僕は呆けたように立ち尽くすだけでした。
頭部を撃たれた人質の女性は一命をとりとめましたが、一生車椅子の生活だと聞きます。
僕のパートナーは奇跡的に回復しましたが、まもなく凶悪犯罪課を去りました」

「辛かったわね」

重ねた手に力をこめて、彼女が初めて口を開いた。

「それ以来、銃が恐ろしいんです。
銃撃戦になると、事件の映像がよみがえってしまって体が動かなくなる。
そして繰り返されるあのときの悪夢、同僚に信頼されていないという妄想や恐怖。
ふいに人に触られたり、近づかれたりすると、説明できない恐怖に襲われる時がある。
そうなったら打ち上げられた魚のように、僕は酸素を求めてパクパクと口を開けるだけだ。
これは捜査官として致命的だとは思いませんか」

情けなくて涙が出そうだった。でも僕は涙のかわりに自嘲的な笑を浮かべた。

「誰かに相談したことはある？あなたの上司のBrown捜査官には？」

深くて静かな彼女の声に、僕は心が崩折れそうになるのを必死で耐えて、ただ首を横に振った。
こんなことを人に話すのは、事件以来初めてなのだ。

「誰にも話すことはできませんでした。自分の弱さを認めることが怖かったのかもしれない。
でも、あなたになら・・・」

「心の中を話すことも、時には必要よ。私も得意ではないけれど」

うっすらと微笑んだ彼女から目を伏せて、僕は唐突に、心の一番奥にひっかかっていた言葉を吐き出した。

「もう、無理かもしれない」

「凶悪犯罪課からの移動を考えているということ？」

僕はぎこちなく首を横に振った。

「局を辞めるということです。いまのままでは仲間の命を危険にさらしかねない」

彼女は無言で真っ直ぐに僕を見つめた。嘘のない蒼い瞳に、僕の心の内部まで見透かされていく。
それでいて彼女は拒まない。不思議なほど寛容だ。

「そうね、それも１つの選択肢だわ。
あなたが考えて決めたことなら反対はしないし、そんな権利は誰にもない。
でも、友人として言わせてもらえるなら、私はあなたに辞めてほしくはないわ。
あなたには後ろ向きに逃げるような道を選んでほしくない。
あなたは立派な捜査官になれる人だと思うからよ。」

「あなたは僕をかいかぶってますよ。僕は弱い人間だ。
こんなことも一人で乗り越えられない男になにができるっていうんです？
僕にもっと力があって、僕がもっと強ければ…」

「それは危険な考え方だわ、John。
あなたに必要なのは『勇気』よ。『力』じゃない。
これは最悪の偶然が重なって起きた不幸な事件だと思う。
それでも、あなたがどんなに後悔しようと、あなたが撃った銃弾は、もう元には戻らないわ。
それを強さや力で忘れようとするのは間違いよ。
あなたに必要なのは、起こったことをそのまま受け入れて、認める勇気。
そして、良いカウンセラーも」

彼女はニッコリと微笑んで続けた。

「『大丈夫』と自分に言いきかせることも大切だけど、ときにはSOSを出して安全な場所に駆け込むことも大事。
そして自分以外の誰かに『大丈夫』と言ってもらうの。
5年前に私が経験したことで、今あなたに言えることがあるとすれば、それだけよ」

「安全な場所…僕にとって安全な場所とは、いったいどこだろう。
そもそも僕にそんなシェルターみたいな場所があるのかどうか」

「私は専門ではないけど、友人として話を聞くことならできる。
一人で抱え込まないことよ。時間はたっぷりあるわ。ゆっくり考えて、それから辞めても遅くはない。
少し休むことよ。心も体も。それには凶悪犯罪課の仕事は少しハードだわ。
部署の移動も含めて、Brown捜査官に相談する必要があると思う」

僕は再び、以前のように銃を持つことができるのだろうか。
後悔と恐怖でがんじがらめになった体を解放し、犯人に銃口を向けることができるのだろうか。

「Scully捜査官、あなたのシェルターはどこにあったのですか？」

柔らかい沈黙があった。

「すぐ近くに」

そのとき彼女の瞳は蒼さを増した。

「それから今はDanaでけっこうよ」

その言葉と彼女の携帯が鳴り始めたのは同時だった。
僕は突然の乱入者を疎ましく思いながら、唇の形だけで「失礼」と僕に告げて
手早く携帯を開く彼女をぼんやりと見ていた。
半分背中を向けるようにして電話相手と話す彼女の低い声は、僕に向けたものとは少し違って聞こえた。

「Mulder？いまどこなの？」

電話の相手が彼女のパートナーであることがわかると、僕はますます携帯を疎ましく思った。
それにしても電話での最初の挨拶が「いまどこ？」とは少し変わった会話だと考えていると、

「これから部屋へ行くわ」と言う彼女の言葉で短い電話は終わった。
「Hello」も「Bye」もない、唐突に始まり唐突に終わった、そんな電話だ。
しかし、その短い電話のせいで彼女の雰囲気はガラリと変わった。
たった数分の電話で、彼女の心が、あらかたMulderの方を向いてしまったのがわかる。
立ち上がって帰り支度を始めた彼女につられるように僕も腰を上げ、彼女を引きとめる口実も見つからないまま、
なすすべなく彼女を見つめていた。

「会えて嬉しかったわ、John。そのうちまた会いましょう。FBIの信頼できるカウンセラーを紹介できると思うの」

差し出された彼女の白い手を軽く握り返しながら、
Mulderとの電話ではしなかったさよならの挨拶を僕にはするのだろうかと考えた。

「ありがとうございました、Dana。僕もあなたに会えて嬉しかった。夢かと思ったくらいです」

心は帰らないでと叫んでいた。

「Mulder捜査官の家まで送ります」 

あと少し、あなたと一緒にいさせてください。

「あなたを送ってきたのはこの私。私は車で来てるのよ、覚えてる？」

彼女は面白そうに笑った。

「送って送られて、帰れなくなっちゃうわ」

それから彼女は小さく肩をすくめると、秘密を打ち明けるような親密な声で僕に囁いた。

「Mulder捜査官の部屋はひとつ上の階。だから車は使わないわ。便利ね」

僕の前を通り過ぎるとき、彼女のクスクス笑いが聞こえた。僕は急いで彼女のあとを追ってドアへと向かった。

「ひとつ上の階？同じアパートだって言うんですか？Mulder捜査官と？」

「私も驚いたわ。あのレストランからここまで、ずいぶん複雑なルートをたどったものだわと思って」

「・・・すみません」

手のひらの汗をジーンズでふきながら、僕はイタズラを見つかった子供のように謝った。
歯を見せずに笑顔を作った彼女は僕を見上げると、するりと部屋を出ていった。

 ｘｘｘ　to be continued xxx

モルまでたどり着けなくて一番イライラしてるのは私ですからーーー！(ToT)
次では絶対！なにがなんでも！

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　yuria