-　Rain　- 雨の向こう側

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　yuria

金曜日の夜８時、約束の時間に正確に彼は私の部屋をノックした。
彼、リチャードとの7度目のデートで、私は彼を部屋に招いた。
礼儀正しい紳士的なハグのあと、リチャードは穏やかな笑顔を見せて
赤いバラの花束とワインボトルをさしだした。
リチャードのハグは、彼の車の匂いとかすかな雨の湿気をふくんでいた。
４月とはいえ雨の夜は、まだうすら寒い。
私はお礼を言ってリチャードからバラの花束を受けとると、
真っ白な花瓶を選んでキッチンのテーブルにパサリといけた。
いつもの私のキッチンは、赤いバラのおかげで少しめかしこんで見えた。
私は綺麗ねと呟きながらも、よそゆきのドレスを無理やりに着せられた女の子のように
少しの違和感と居心地の悪さを感じていた。
いつも見慣れたキッチンが、見知らぬものの進入に、僅かに空気を硬くしたような気がした。

薄いグレーのスーツに白いＹシャツ、上品なストライプのブルーグレーのネクタイは
長身のリチャードにとても似合っていた。
広い肩幅、厚い胸板、がっしりとして大きな手は、どう見ても弁護士というよりはスポーツ選手だ。
でも軽くウェーブした明るいブラウンの前髪がかかる額や、神秘的な湖のように青く澄んだ瞳は、深い知性をたたえている。
リチャードと過ごす時間はいつも心地よい。
仕事で硬くなった心ごと、ふんわりと包み込んでくれるようなリチャード。
心の奥底にある、ふれてほしくない部分にはけして踏み込んでこないリチャード。
ピンと張りつめた雰囲気や討論、嘘のない正直すぎる言葉ゆえの傷つけあいなどありえない、穏やかな時間。
それは私が長いこと忘れていた時間。

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今から２ヶ月ほど前、私は兄のビルの紹介でリチャードに会った。
ビルはいつまでたっても幸せ（ビルは女の幸せは『結婚』であると信じて疑わない）をつかもうとしない
妹を心配して彼の友人であるリチャードを紹介するといってきかなかった。
それでなくともビルとの仲が気まずくなっていた私は、これ以上兄妹の関係悪化を避けるため、
気が進まないままに真冬のDCのバーでリチャードと会った。
ビルの友人というので、てっきりリチャードも海軍関係だと思っていた私は、
彼が弁護士であると知って少々驚いた。
思えばリチャードにまるで関心のなかった私は、彼の職業についてもなにも知らなかった。
もっともビルがリチャードについて話したことを、私が聞いていなかったのかもしれないが。

初めて会ったリチャードは上等そうで上品なスーツにセンスの良いネクタイを合わせて
終始にこやかな笑顔をたやさなかった。
ビルは、うすいブルーのワンピース姿の私を（仕事用のスーツは絶対に着てくるなとビルに言われていた）
誇らしげにリチャードに紹介し、気を利かせたつもりかしばらくすると
用事を思い出したとモゴモゴと口にしてバーを出て行った。
ビルが店を出たあと、私たちは当り障りのない話をした。
映画や本について、お酒、好きな食べ物、ビルとリチャードのハイスクール時代の失敗話では
私は涙を流して笑い転げた。
リチャードは私の仕事について一言もふれてはこなかった。
私は彼の落ち着いた話し方や深い声、くったくのない明るい笑顔に好感をもった。
久しぶりに頭から仕事を締め出して、寛ぐことができた気がした。

３時間後、私たちは自然に次に会う約束をして別れた。
最後に飲んだジンライムで私の瞼は重くなり、リチャードが停めたタクシーに乗り込むと
行き先を告げて軽く目を閉じ、後ろのシートに深く座って背をもたせた。
ほろ酔い気分でタクシーを降り、さっきまでの楽しさを引きずったまま鍵を開ける。
ひやりとして暗い部屋に入ると、私はいつもの癖で真っ先に留守電のメッセージを確かめた。
ライトは点滅していない。私は自分が落胆したことに気がついた。
部屋の電気も点けずにそのままソファに座り、電話を見つめた。
期待している相手からのベルが鳴るように祈りながら、最近電話で聞いていない、くぐもった声を思った。
私はしばらく身動きもせずに電話を見つめていたが、次の瞬間、
まるで手が独立した意志を持ったかのように受話器をとり、意志を持った指が慣れた番号を押していた。
少し前まではなんでもなかったことが、今の私には、とてつもなく難しいものに思えた。
彼が出たら、なんでもいいから話がしたいと思った。
彼の顔を見ずに、声にだけなら素直になれそうな気がしていた。
受話器を強く耳に当てて呼び出し音を待っていると、期待はずれのツーツーという話中の音が聞こえた。
単調に鳴り続ける少し間の抜けた機械的な音を聞きながら、
私以外の誰が彼の話を聞いているのだろうと、ぼんやりと考えた。
夜に彼の話を聞くことは、私の役目のはずだった。


リチャードと私は休日に映画やドライブに行くよりも、ゆっくりブランチを食べたあと美術館や公園をまわることが多い。
その点では美術館や博物館、美しい公園が多いDCの街に私たちは飽きることがなかった。
リチャードはウィットにとんだ会話でしじゅう私を笑わせ、助手席にまわって私のために車のドアを開け、
レストランでは自然な仕草でイスを引き、まるで私をロイヤルプリンセスのように扱った。
私が目を上げると、かならずリチャードの視線とぶつかった。彼の眼差しは温かく穏やかだ。
私だけを見つめるリチャードに私は今までにない満足感を覚えていた。
確かに私は彼の目の前に存在しているのだという実感。いつも必要とされ、求められているという幸福。
それは私がずっと求めていたもの。
そしてそれはFBIの地下オフィスでは得られなかったもの。

地下のオフィスには私のデスクがない。
狭苦しいオフィスに自分用のデスクはあえて必要ではないし、それ自体私にとってはさほど大きな問題ではなかった。
しかし、私は時々考える。もしも私がいなくなったら、あそこには何が残るのだろう。
私が確かにあそこに存在したという何かは残るのだろうか。
時とともに私の存在は、古いファイルを処分するよりも簡単に
オフィスの中から跡形もなく消えてなくなってしまうような気がした。
あそこでの私の存在は何を意味するのだろう？
そもそも私の存在は、オフィスを共有している私の相棒にとって意味のあるものなのだろうか。

地下オフィスのファイルキャビネットに眠る膨大な数の事件ファイル。
その中に、Dana Scullyと記されたファイルがある限り、私は真実の探求を、けっして途中で投げ出さない。
この決意と信念はMulderに劣ることはない。
ときにMulderの情熱や、そのゆるぎない信念は、私の原動力になってはいたし、
彼に認められたい、役に立ちたいという気持ちがいつも心の奥にあることを認めないわけではないけれど
私は今日まで、ただ彼にひきずられてきたわけではない。
私は私の身に起きたことを解明せずにはいられないし、それはMulderも同じことなのだと思う。
しかし私はあくまでも科学者であり、事実と証拠、それがすべて。
それを否定することは、今日まで生きてきた私の人生すべてを否定すること。
それでももし、私の理論が、私とMulderが追い求める真実を遠ざけているのだとしたら...。

私にはどうしても見ることができないもう１つの世界。
Mulderは、その世界のドアをやすやすと開けてみせる。
私にはとても受け入れることができないそれこそが、真実への近道だとしたら、
私のあのオフィスでの役割は、いったい何なのだろう。
受け入れられないものを正面から受け止める、Mulderの強さが羨ましい。

私の思考は馴染みのある迷宮へと迷い込んだ。

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モーツァルトを低く流したキッチンのテーブルには、私が用意した簡単な夕食が並んだ。
チーズとクラッカー、トマトのパスタとチキンのサラダ、ガーリック風味のフランスパン。
そしてリチャードからの白ワイン。
ワインは冷たくてほんのりと甘く、豊かな香りが心を落ち着かせた。

「すごく美味しい。ダナは料理が上手だ」
リチャードは落ち着いた心地よい声で誉めてくれた。

「どれも簡単なものよ、とても料理とはいえないわ」

「一人暮らしの独身男はこういう料理に飢えてるのさ」

「一人暮らしの女の食卓もたぶんあなたとそれほど変わらないと思うわ。
　仕事から帰って自分のために料理を作る気はしないもの」

「そのとおり。今度は２人でサプリメントをかじりながらワインを飲もう」

リチャードはそう言って翳りのカケラもない美しい笑顔を見せた。皮肉のカケラもない笑顔を...。
リチャードは私に何も要求しない。嘘も、真実も、対等であることも...。
彼が私に望むもの、それはただ、隣にいることだけ。
とりとめのない話をしているうちにワインのボトルは空になり、いつのまにかモーツァルトのCDは終わっていた。
私がお皿をディッシュウォッシャーに入れている間にリチャードは長身を折り曲げて大きな手でテーブルを拭いた。
私はディッシュウォッシャーのスイッチを入れて、冷蔵庫から赤ワインを出した。
リチャードが慣れた手つきでワインを開ける。
コルクがボトルから抜けるときのポンという良い音とともに、豊潤なワインの香りが鼻をくすぐった。
私たちは場所をキッチンからリビングに移し、チーズをつまみながらワインを飲んだ。
リチャードはいつも私の相棒が座るソファーに座った。
相棒よりも控えめに。相棒よりも礼儀正しく。相棒よりもにこやかに。
そしてリチャードはなんのためらいもなく私を『ダナ』と呼び、なんのためらいもなく私を１人の女性として扱う。
優しいリチャード。穏やかで控えめで、けして感情をぶつけてこない。

「この前借りてきた映画がひどいもので」リチャードが落ち着いた心地よい声で話している。
「始まって３０分で出演者の半分は血みどろで死んでいったよ」

「弁護士の映画は観ないの？」私もソファーの隅に収まってワインをひと口なめてから訊いてみた。

「まったく観ないね。僕らの生活は映画とは違うさ。ダナはFBIの映画は観るかい？」

リチャードが『FBI』の話題を持ち出したのはこれが初めてだった。

「観ないわね。」私は苦笑いしながら答えた。

「ねえリチャード、ビルはあなたに私のことをなんて話したの？」

「うん？俺にはかわいい妹がいるんだって何度も聞かされたよ。美人で頭がいい自慢の妹だって」

「美人で頭がいい自慢の妹ですって？ほんとにそんなこと言ったの？」あきれて訊き返した私に

「だって事実だろ？」そして『ダナは素晴らしく美人で頭が良い』と真顔でくり返した。

誉められることに慣れていない私は、赤くなった頬を彼にさとられないようにうつむいて、
スカートの裾を直すふりをしながら呟いた。

「ビルはいつまでたっても妹は子供だと思っているんだから困るわ」

「ビルは家族思いなんだよ。責任感の強い奴だから家族を守ろうという気持ちが強いんだろう。
　君達のお父さんが亡くなってからは特にね」

「それはわかってるの。ビルは父の代わりをしようとしてる。昔からそうだったの。
　父が長い出航にでるときには、ビルはかならず母や弟妹を守るのがお前の仕事だぞって父に言われていたから、
　昔から家族を守るのが自分の務めだと思っていたんだと思うわ。
　でも、ときどき愛し方を間違えるの。私たちは彼のチェスの駒じゃないわ。ビルの自由には動かせないのに」

「でも彼は君たちをとても愛しているよ」

「わかってる。それはわかっているの。だから...」

「だから僕と会った？ビルに言われたから？」

「リチャード、それは最初だけだわ。今は違うってこと、あなただって知ってるはずよ。
　...ビルは私の仕事についても、何か言っているはずね？」

「うまく話題をそらせたな」

リチャードはニヤリと笑った。

「僕が聞いたのは、君はFBIの地下オフィスで働いていて、
　FBIではちょっと変わった種類の仕事をしているってことだけだ」

「間違っていないわ。相棒のこともきっと何か言ったでしょう？」

「あ〜君のパートナーの名前は...確かMulder。Fox Mulder 。変わった名前だったから覚えてる。
　オックスフォード卒の秀才で君とはパートナーを組んで４年になる。
　でもいまだにファーストネームで呼びあわない。お互いにプライベートな時間を分かち合わない関係」

「それも間違ってない」私はリチャードを見上げて苦笑した。

Mulderは私をダナと呼ばない。
* Scully *
Mulderの柔らかい声が呼ぶと、私の名前は特別な意味を持つ。
Mulderは『Scully』にたくさんの意味をこめる。
様々な感情をこめる。そして私はそれに気づかぬふりをする。
Mulderとプライベートな時間をともに過ごす時、それはどちらかが胸が潰れるくらいの不幸に見舞われたとき。
あるいはどちらかが死の縁を彷徨っているときと決まっている。
...一瞬くぐもったMulderの声が聞こえた気がした。『Scully...』

ビルがリチャードに言ったのはそれだけではないはずだ。
ビル独自のMulder評（はてしなく辛口）も話して聞かせただろう。
しかしリチャードは人を悪く言うことはしない。
穏やかで優しい大人の男性。
彼といると、私が４年前に手ばなした普通の暮らし、平凡だけどかけがえのない幸せを取り戻せそうな気がする。
Mulderとではけっして望めない生活。
物静かで一見静かな海のようなMulderの心の奥にたぎる情熱、一途だけれど危険な情熱。
それは容赦なく他人を傷つけ、彼自身をもすり減らす。
私は野生動物のようなしなやかさで走るMulderを想った。
スーツの上からでもわかる背中の筋肉の流れを、そして時折りよぎる孤独の影を思い浮かべた。

最近のMulderは不機嫌だ。
しかし彼は、最近彼への距離を広げた私に腹を立てているわけではなく、
彼の中の押さえ込んだ行き場のない感情を持て余し、彼自身に腹を立てているように見えた。

彼は、私が彼の知らない誰かとデートを重ねていることを知っている。
リチャードは2〜3度オフィスに電話をかけてきたことがあった。
Mulderはリチャードについて何も訊かない...彼と私はプライベートな時間を分かち合わない関係。
しかし言葉や態度にはあらわさなくても、私には彼の心の中が見える。
自信にあふれた態度の奥に、少年のように怯えた瞳のMulderが見え隠れする。
私を失うかもしれないという不安に怯えるMulderが...。
でも私は彼を安心させてあげることはできない。
彼の不安を拭い去るためにさえ、私は彼に嘘をつくことはできない。
Mulderは私の人生の中心にいるわけではない。
彼の知らない私がいたっていい。

最近私とMulderは交代でランチに出る。オフィスを空にしないため。
重要な電話を受けそこねないため。それは表向きの口実。
今のようなギクシャクとした気分で一緒にランチをとるのは気が進まなかったし、
私は時々リチャードと待ち合わせてお昼を食べることもあった。
今日も午前中のアカデミーでの講義のあと、リチャードとの約束があった。
私はFBIの地下の狭い廊下を足早に歩きながら、急いでいるのはリチャードとの約束に遅れないためなのか、
それとも地下オフィスの嗅ぎ慣れた湿った香りと、そこで待つ相棒のためなのかを、ボンヤリと考えていた。

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「お帰り」

私がオフィスのドアを開けると、Mulderがデスクに広げたファイルから目も上げずに声をかけた。
最近X-Fileらしい事件がない彼は、同僚から様々な難解な事件のプロファイルを頼まれて、
デスクの上にはいつも以上にファイルの山が高く積み上げられていた。
犯人の心の奥底にまで踏み込んでいくMulderのプロファイルの方法は、
きっと彼の心と精神を磨耗させているに違いなかった。

「何もなかった？」

何かあったらMulderはデスクになど向かっていないだろうと思いながらも、他に声をかける話題が見つからなかった。

「ああ、X-File課は開店休業状態だ。電話1つ鳴らない」

Mulderの興味はもっぱらデスクの上のファイルにあるらしく、彼はあいかわらず私のほうを見ようともしないで答えた。
かみ合わない心に少し淋しさをおぼえながら、私もできるだけ興味がなさそうに、たまにはそれもいいわと答えた。

「退屈で死にそうだ」

ファイルから目を上げ、やっと私の顔を見上げたMulderに、私は言わなければならないことがあった。

「Mulder、帰ってきたばかりでこんなことを言うのは気が引けるんだけど、お昼に約束があるの。
　悪いけれど先に休憩をとらせてもらえるかしら」

「もちろん」

Mulderは、薄手のコートを着たまま歯切れ悪く切り出した私を少しの間見つめると、
こともなげに肩をすくめてそう言って、僕には関係のないことだというような笑顔まで返した。
そして私は、やっと帰りついた懐かしい匂いの地下室を後にして、再び外の世界へ戻らなければならなくなった。

「ありがとう。明日はあなたが先に休憩をとって」

私は、ともすれば消え入りそうになる声を奮い立たせてそう言うと、オフィスのドアを後ろ手に閉めて、
ついさっき急いだFBIの狭い廊下を、来た時と同じ歩調で歩いた。
リチャードとの約束に遅れないために。そして、１つボタンをかけ違えたようなMulderとの会話を忘れるために。
明るい地上のお洒落な店で、リチャードと気軽な会話を楽しみながらランチをとることは、
今の私にとって自分のバランスをとるための大切な時間となっていた。

ランチからの帰り、私がオフィスのドアを開けようとしたときに、珍しくMulderが口笛を吹いているのが聞こえた。
それはなんの曲かもわからない、もしかして彼の創作かもしれなかったが、
私はしばらくドアの外に立ってMulderの奏でる不思議な曲を聞いていた。
曲を聞いているうちに、案外彼は一人でも大丈夫なのかもしれないと思った。
私がいなくても、彼はうまくやっていくのかも...。

このまま私はどこへ向かうのだろう。私の意志はどこにあるのだろう。
一人で考える時間が必要だ。仕事のこと、リチャードのこと、そして...Mulder。
今日のオフィスでの別れ際、近いうちに休暇をとりたいと言った私を弾かれたように見たMulderの瞳を思い出した。
恐れていたことがすべて現実になったように絶望的な、でもどこか挑むような光りを宿した彼の瞳を。

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「ダナ？大丈夫？」

ぼんやりとリチャードのほうへ顔を上げると心配そうな彼の青い瞳とぶつかった。

「大丈夫。少し酔ったみたい」

心の中のMulderを無理やり消し去り、私はにっこりと笑ってみせた。
笑顔が歪んでいませんように。

「ダナはお酒が強いね」

ワインのボトルはほとんど空になっていた。
リチャードがコーヒーを飲みたいと言ったので、私は濃いめに入れたコーヒーをソファーのリチャードに渡し
リビングの窓を開けた。雨の夜のひんやりとした新鮮な空気が流れ込み、気持ちが良かった。
窓にもたれたままコーヒーをひと口すすると、静かにリチャードが並んで私の背中に手を当てた。
私はリチャードの大きくて力強い手を背中に感じながら、私の知っている優雅な長い指を持った手を想った。
私の知っている手はもう少し体温が高い。

「寒くないの？」リチャードは包み込むような穏やかさで私に微笑みかける。
私の知っている微笑は、優しさの中に孤独な影を残す。

「ダナ、君は本当に君の兄さんが僕たちの仲を取り持ったと思っているのかい？」
リチャードは片手で私の体をすっぽりと包み込んでしまった。
そして私はリチャードの香りに包まれて頭を彼の逞しい胸に預けながら、私の知っている懐かしい香りを想って目を瞑った。
私の知っている抱擁は、涙と孤独と愛情にあふれている。
私の知っている抱擁は、きつくもなく、緩くもなく、あつらえたようにピッタリと私を包む。
私の知っている抱擁は、私をすっぽりと閉じ込めてしまわずに、腕から逃れる自由を残す。

「違うの？」夢の中のような声で私は訊いた。

「僕がビルに頼んだのさ。君を紹介してほしいって。
　ダナは覚えていないだろう、ハイスクールの時に僕が君の家に何度か遊びに行っていたことを。
　その頃からビルに頼んでたのに彼は頑として君を紹介してくれなかった。
　溌剌として、少し男勝りのダナは可愛かったよ。
　君のふっくらとした頬や飾らない微笑みを今でも忘れない。
　心配しないでくれ、もちろんあの頃からずっとダナを想っていたわけじゃないよ。
　僕はそこまでサイコ野郎じゃない」

私がぎょっとして目を開けると、リチャードが笑っていた。なんの翳りもない顔で。

「最近久しぶりの同窓会でビルに会って君の話がでたんだよ。そしたらどうしても会いたくなった。
　ビルもどういうわけか首を縦にふった。そして今があるわけだ」　

「信じられない。１０代の頃の私を知っているの？今の私を見てがっかりしたならごめんなさい」

「そんなはずないさ。君は洗練されて綺麗になっていた。あの日ダナと再会したとき、僕は息が止まるかと思ったよ。
　ブルーのドレスがとても似合っていた」

リチャードは誠実な声で囁いて私の頬に優しく唇をあてた。

私の知っている唇は...。
私が少し体を固くしたことに、きっとリチャードは気づいてしまった。
でもリチャードはけっして詮索しない。気づかなかったふりをする。優しいリチャード。

「４月に入って木々も芽吹いて、徐々に緑を濃くしているのに、雨が降るとどうしてすべての色は消えてしまうのかしら」

雨に閉じ込められたような漆黒の外の闇を見ながら私は言った。
リチャードはそれには答えずに、風邪をひくよと言って窓を閉め、私をソファーに座らせた。
ソファーから見る窓は、暖かな光りから無残に四角く切り取られ、冷たくぽっかりと浮かんだ闇の洞窟のように見えた。
その窓を見ながら、私は何故かMulderを想った。

私の言葉はリチャードには通じない。いや、リチャードにだけではない。
他の誰にも通じないのだ。Mulder以外には...。
そしてまた、Mulderの言葉も私にしか通じないのだと思った。
Mulderと離れていることが無性に不安で孤独に思えた。

突然の電話のベルで静寂が破られた。
私はリチャードの腕の中からすり抜けて、リビングテーブルの上の受話器をとる。

「Hello」

「...Scully」

低いとまどいがちなその声は、乾いた土がたちまち水を吸い込むように私の心にすうっと染みこんだ。
彼は私の名前を、まるで特別な言葉のように発音する。
私は冷静さを取り戻そうと、静かに息を吐いた。
時計を確認すると夜の１１時。私はわずかに胸騒ぎを覚え、次の言葉は仕事モードの声になっていた。
Mulderの相棒の声に...。

「Mulder，今どこ？」

「邪魔してすまない。事件じゃない。ちょっと君に伝えたいことがあって」

Mulderはいつものように私の質問には答えずに、いつもと違う遠慮がちな声で切り出した。
そして私は確信した。Mulderは部屋にリチャードがいることを知っている。
さっき別れたばかりなのに、私はもうMulderの声がこんなにも懐かしい。

「なに？」

少し緊張をといて私は尋ねた。
背中にリチャードの視線を意識する。

「まず、最近の僕の君への態度を謝らなきゃならない。僕は君の私生活に口を出す権利はまったくない。
　もう君に不愉快な思いはさせないようにする。選択権は君にある」

「選択権？」私はオウム返しにつぶやいた。
私はMulderに不愉快な思いをさせられた覚えはない。今、私が抱えているのは、私自身の問題なのだった。

「君がXーFileを続けるにしろ辞めるにしろ、選択権は君にあるんだ。
　君には君の人生を歩く権利がある。たとえそれが僕ぬきの人生でも。それを言っておきたかった」

―― Mulderのいない人生 ――
それは考えてもいない言葉だった。
「No」という選択もありなんだ、私にそう思わせるのはいつものMulderの優しさであり、残酷さだった。

「それで用件だが、僕は明日の朝１番でサンフランシスコに飛ぶことになった。
　例の大学教授と連絡がとれたんだ。明日会うことになった」

なんの感情も含まない単調なトーンでMulderが伝えた。

「"I" ? "We"ではないの？」

「ああ、２人で行くほどのことではないさ。君は週末をゆっくり過ごしてくれ」

Mulderの言葉には傷ついたような響きと、ほんのわずかの刺が感じられた。
私は、いつもながら自分勝手に傷ついてしまうMulderに少し苛立つと同時に、見捨てられたような淋しさを覚えた。

「うまくいけば日帰りで、そうでなくとも日曜の午後には戻れるはずだ」

「わかったわ。でも連絡はいれて。何時でもいいから」

Mulder、あなたが私を必要としているときには、いつでも呼んでいいのよ。そんなサインを込めたつもりだった。
けれど、「月曜に」という短い言葉を残してあっさりとMulderからの電話は切れた。
大切な言葉を聞き逃したような、妙に味気ない気持ちで、
私はしばらくMulderがいなくなった受話器を握ったまま立ち尽くしていた。

『あなたのXーFileは今はもう私のXーFileでもあるのよ。選択はとっくにしているわ。
　そして、あなたは何を選択するの？』

私はそんな言葉を言いたかった。そしてそんな言葉を聞きたかった。
リチャードに背を向けたまま何度か瞬きを繰り返して心を落ち着かせ、ゆっくりと受話器をおいて振り向くと、
もの問いたげなリチャードの瞳とぶつかった。

「君のパートナーかい？」

いつも穏やかで落ち着いているリチャードの声には、私が初めて聞く動揺の響きがあった。
誠実な青い瞳には不安の色が宿っていた。

「そうよ。Mulderから。明日、仕事でサンフランシスコに飛ぶって言ってたわ」

私は努めてなんでもないような声を出した。しかし私の指は落ち着きなくスカートのシワを伸ばしている。

「君は行かないの？仕事なのに？」

「彼に私は必要ないらしいわ」

知らずに自嘲気味な響きがまざる。

「君の心の中に誰か別の人がいることは知ってたよ。でも僕はそれでもいいと思ってた。
　時とともに君の心の中で少しずつ僕の占める割合が多くなっていくまで待とうと思った。
　もちろんダナを独占しようとは思ってない。僕もそこまで若くはないし、僕にも忘れられない過去はある。
　ただ彼よりも少しだけ、僕が君の心を占める割合が多くなればいいと思ってたんだ。
　でも、彼は思い出ではないんだろ？...Mulderは？」

いつも穏やかで感情をおもてに出したことのないリチャードが、今、私の前で感情を抑えきれずにいた。
彼はとても傷ついて見えた。

「ビルが何を話したかは知らないけど、」

「ダナ、ビルから何を聞こうと僕は自分で見たものしか信じない。僕はずっと君を見てきたんだ。
　僕が話しかけても、抱きよせても、君の瞳は僕を素通りしてた。
　君は僕を拒まないかわりに、受け入れようともしなかった」

いつもは静かに私の話を聞いてくれるリチャードが、私の言葉を遮った。

私は、ごめんなさいと小さな声で謝りながら、もっと違う言葉が言えたらいいのにと思った。
もっと優しい、リチャードの傷を癒すような言葉が。でも私には謝ることしかできなかった。
嘘が言えない私はMulderと似ている。
Mulderと私は同じ言葉を話す。そして私はごめんなさいとくり返した。
仁王立ちのように立っていたリチャードはぎこちなく動いて、スーツの上着をはおり無言で帰り支度をはじめた。
私はリチャードを失おうとしている。
彼はドアのところで振り返ると、淋しい笑顔を見せた。

「ごめん」

「どうしてあなたがあやまるの？」

私はほとんど泣き声になっていた。

「ダナの話を聞いてあげられなかったから。ダナの力になってあげられなかったから。
　ダナが何かを深く悩んでいることに気づいていたのに、
　それにふれたら君は僕から離れていってしまいそうだったから、怖くて聞けなかった」

「あなたは優しいのよ」

「優しいんじゃない。臆病なんだ」

リチャードの笑顔は痛々しかった。

「君たちは２人とももう少し素直になるべきだね。まず、ダナは彼に電話をすること。
　明日サンフランシスコへは２人で行くんだ。彼はきっとダナを待ってる」

「そうは思わないわ。彼は一人のほうが気楽でいいのかも。...とにかく私のほうからはもう」

「ダナ、どっちが先に言い出すかなんて、さほど大きな問題じゃないよ。
　自分の心に素直になることが大事なんだ。ダナは上手い嘘もつけないけど正直でもない。
　1人ずつで悩んでいないで２人で答えを探したらどうだい？
　彼を遠ざけたところでダナが楽になるわけでもないだろう。
　人に嘘をつくことも自分を誤魔化すことも苦手な君なんだから」

リチャードと一緒にいくつもの穏やかな夜を過ごし、数えきれないくらいの眩しい朝を迎えられたらどんなにいいだろう。
リチャードという大きくて頼れる人に寄りかかり、雨や風から守ってもらい、金曜には２人で外食をして
週末には２人で郊外に出かけ、ゆったりと過ごす居心地のいい人生もあるのかもしれない。
私はそんなもう１つの人生を今、手ばなそうとしている。
そして欺瞞の砂漠へ ――欺瞞に溢れているけれど、確かに純粋な真実の埋もれている砂漠へ―― と再び踏み出そうとしている。

「ダナにはもっとたくさんプレゼントを贈りたかった。
　かわいいジュエリーや君に似合いそうな柔らかな色の洋服、小さなバッグ。
　そして幸せそうに微笑んでいてほしかった。僕が守ってあげたかった。
　でも君は本当はそんな生活を求めてはいないんだろう？
　凛として、意志の強い瞳を持ったダナ。君には僕じゃ役不足だ。君にふさわしい男は他にいる」

「リチャード、そんなことない。あなたは完璧な男性だわ。
　あなたの奥さんになる人は、少しの曇りもない幸せを手に入れることができる」

「ありがとうダナ。でも、君に言われても嬉しくない」

リチャードが静かに微笑んだ。もっとましな言葉を思いつかない自分が情けなかった。

「ダナ、君への最後のプレゼントだ。
　僕は消える。彼に電話しろ」

リチャードの最後の言葉はかすかに震えていた。そして彼は静かに出て行った。
白いドアの内側に私は一人残された。
泣いてはいけない。リチャードを傷つけたのは私。だから私が泣くのはフェアじゃない。
キッチンで小さめのグラスに氷を入れ、キッチンキャビネットの隅で眠っていたワイルドターキーを注いだ。
私は指で氷を転がしながらリビングの窓に近づく。そしてぽっかりと四角く口を開けた闇の洞窟のような窓を見つめた。
４月の雨は窓の外の景色に細かな斜線を描いている。窓ガラスには半透明になった私の姿が写りこむ。
グラスの中で氷がキンとはじけた。
私は１口ワイルドターキーをなめてからグラスをリビングテーブルにおくと、それを受話器に持ち替えた。
指が感覚で覚えてしまった番号を押すと、3コールで相手の声が聞こえた。

「Mulder」

「Mulder, 私よ」

「Scully, どうした？こんな時間に」

Mulderの問いかけに時計を見ると、午前１時をとうにまわっている。
リチャードとのことは、話すつもりはなかった。

「ああ、遅くにごめんなさい。もう寝てた？」

「まさか」

受話器の向こうでMulderがひそやかに笑う気配を感じた。会話が途切れる。
いったい私はなんの話をするためにMulderに電話をかけたのだろう。
頭の中が真っ白になって言葉がでてこなかった。受話器から聞こえてくるのはMulderのかすかな息づかいと、雨の音。

「Mulder、窓を開けているの？雨の音がするわ」

「ああ、外を見ていた。雨が降ると、どうして景色は色を失うんだろう」

Mulderと私は同じ言葉を話す。心が同じビートを刻む。魂が近い。
人間の理性に隠された奥底に眠る野性の部分でお互いを求めあっている。
私とMulderは２人でいると完全になれる。私はそれを確信した。
とうにわかっていたはずのことを頭が理解する前に、もっと深い原始の細胞で感じた。

「あなたを信じてるわ」

「僕を信じる？そんなの馬鹿げてる」

Mulderは軽く笑った。

「あなたしか信じないわ」

「Scully,どうした？何があった？」

電話の向こうでMulderの笑みが消えたのがわかる。

「何もない。何もないから探してみるわ。あなたと一緒に探したいの。
　明日も、あさっても、その次も、そのまた次も、あなたと探し続けたいの。
　私が、忘れかけていた何かを」

「Scully？」

「ねえMulder」

「ん？」

「私たち、前世は双子だったのかもしれないわ」

私はMulderからの毒を含んだ皮肉な答えを予感して身構えた。
しかし彼は私の予想を裏切り、皮肉のカケラもない低い声で、そうかもしれないねと答えた。
私はきっと答えをさがせると思う。Mulderと２人なら。
４月の雨は降り続き、世界を白黒にするけれど、きっと世界は、すぐに色を取りもどす。



　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　-　end　-

ここまで読んでいただけたのなら、大変お疲れ様でしたー！(>_<)

設定はｓ4。ScullyがXFでの自分の存在や仕事、Mulderとの関係に疑問を抱いていた頃です。
彼女はリチャードというMulderとは正反対の男性に出会い、彼との穏やかな日々に新鮮で、また懐かしい思いを抱きます。
これはScullyの側から書かれた一方的な物語ですが、もちろんモルにはモルの物語があるはずです。
ラスト、Scullyの悩みは何も解決しないままに終わりますが、２人でならなんとか答えをみつけだせるのではないか
そんな希望をこめてこの物語を終わらせたつもりです。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2003 Sept. yuria