Title: Al Dente

Rated : PG-13 

Author : Spooky247

翻訳　由美

７月６日金曜日　PM１：３８

ナースがMulderに「パパ」と呼びかけた時、彼は一瞬ぎょっとした顔をした。

それは世間一般で言う"ぎょっとした"表情ではなかったから、普通の人が見ても彼の表情の変化に気付か
なかっただろう。
８年もの長い間パートナーを組んでいたとは言え、以前の彼女でさえも気付かなかっただろう。
しかし、６週間の育児も含めた同居生活の結果、Scullyは彼の顔にわずかに現れた心の動揺に気付いてしまった。

ナースだって悪気があった訳ではない。
「あらパパ、ベビーと一緒にママのお迎えに来たのね？」
彼女が言ったのはそれだけだ。
その口調は明るくて、邪気は一切感じられなかった。
産婦人科の待合室という、男性が常に居心地の悪さを味わう場所で、"あなたは場違いではない"というメッセージを込めて励ましたつもりだったのだろう。

しかし、目の下に大きなくまを作り、無精髭を生やしながらやつれた顔でベビーキャリーを抱えている彼の姿は、実際の所かなり場違いだった。
ラベンダーやピンク色で彩られている待合室の壁に対して、彼のくすんだブルーとグレイの服は一際浮いて見えた。

「やあ。」
Mulderは恥ずかしそうに言うと、神経質な笑みを見せた。 
「何も問題はなかったかい？」

Scullyは唇の端を上げただけの笑みを返し、無言で頷きながらベビーキャリーの中を覗いた。
「眠ってるの？」

Mulderは彼女がよく見えるようにキャリーを持ち替えた。
その中では彼らの生後６週間になる息子がスヤスヤと眠っていた。
「ああ・・・さっきようやく眠ったんだ。車の振動がよかったのかな。後でもう一度乗せてみようか。」

Scullyの中で苛立ちが募った。
Mulderに早く気付いて欲しかった。
Williamを寝かしつけるのに車に乗せるのは昨日も試みたが、無駄な結果に終わったのだ。
二日前も四日前も試したけれど、Williamは眠ってくれなかった。
しかし、Scullyは大きなため息を堪え、笑顔を作った。
「ええ、そうね。やってみましょう。」
彼女はそう言って窓口を指差した。
「あとは会計を済ませるだけなの。」

Mulderは頷いた。
「じゃあ、この辺で待ってるよ。」

「ええ、座って待っていて。もう少しかかると思うから。」

Mulderは回れ右をしてシートに向かい、ベビーキャリーを大事そうに太股にピタリと寄せて腰掛けた。
Scullyはその姿を見届けると受付に向かった。

「お名前は？」
マスカラをたっぷりと塗った受付の女性が長い睫毛をバサバサさせながら訊ねた。
Scullyはパチパチとまばたきを返して相手の化粧を凝視しながら、この女性のメイクアップパレットにはきっとここの壁紙の色と同じラベンダーとピンクしかないのだろうとぼんやりと考えていた。

「・・・あの？」

Scullyは我に返り、あくびを噛み殺しながら答えた。
「Scullyです、Dana Scully。先生はDr.Speakeです。」

受付の女性はしばらく書類をガサガサ捲っていたが、やがて驚いたような素っ頓狂な声を上げた。
「あら？おかしいわね、カルテがないわ。」
彼女はそう言うと椅子を１８０度回転させ、コンピューターのキーボードに張り付いている若い女性を睨み
つけた。

「何ですか？」
若い女性も彼女に負けじと睨み返しながら訪ねた。

「Scullyよ、Dana Scullyさん。彼女のカルテあなたのところで留まってない？」

Scullyはバッグを開け、小切手とペンを取り出しながらため息をついた。
「念のために言っておくけど、私の会計は２０ドルよ。」

「きっとまだBrendaが持っているんだわ。」
若い女性はそう呟くと、立ち上がって事務所から出て行った。

受付の女性はScullyの方に向き直り、また例の睫毛をバサバサさせながら謝った。
「申し訳ありませんけど、もう少しお待ちくださいね。」

「いいのよ。」
Scullyは平静を装って答えた。
しかし、心の中は彼女の穏やかな外見とは異なっていた。
Williamを出産して、今日がめでたく最後の診察日なのだ。
この１０ヶ月間は少なくとも順風満帆なマタニティライフとはいえず、辛いことも数多く経験した。
そして、ようやくこの通院生活から解放されると思ったら、最後の最後にカルテを紛失したときた。
普段の彼女だったら辛抱強く待っていたかもしれないが、睡眠不足とストレスの溜まった身体にはこの待ち時間が拷問のように感じられた。

Scullyがイライラとペンの先でカウンターを叩きながら待合室の中を見回していると、入り口のすぐ横にあるラックの中のパンフレットが目に止まった。

ワーキングマザー：仕事と育児を同時にこなすテクニック

これだわ――
Scullyはラックに歩み寄り、そのブルーのパンフレットを手に取った。

Mulderの方を振り返ると、彼は熱心に雑誌を読み耽っていた。
あれは・・・ピープル？ニュースウイーク？
Scullyは彼が何の雑誌を読んでいるのか知りたくて首を伸ばした。
そして、笑顔の乳児が表紙を飾っているのを見て、彼女は心の中で小躍りした。

この６週間というもの、彼女はMulderにも育児雑誌を読むように勧めてきた。
しかし、彼は決してそれらの雑誌を開こうとはせず、Scullyが密かに「Mulder側」と呼んでいるベッドサイドテーブルの上には何種類もの定期購読誌が手付かずのまま積み上げられていたのだ。

でも・・・何となくその辺にあったから手を伸ばしただけなのかもしれない。
それとも、ようやく彼にも父親としての自覚が芽生えてきたのだろうか？

ふと、先日読んだ雑誌の、汚いと言って我が子のオムツを替えようとしない夫の記事が彼女の頭をよぎった。
でもMulderはWillをそんな風には扱いはしない。
彼はWilliamを愛している。

・・・そうよね？


〜〜〜〜〜〜

PM２：０６

車の中は暑かった。
Mulderは車を発進させ、駐車場から道路に出るとすぐに迎えにきた時と同じ質問を繰り返した。
「それで？何も問題はなかったのかい、Scully？」

彼女は再び頷いた。
「ええ、大丈夫よ。」

Mulderは不満そうに唇を噛み、声を絞り出した。
「そうか。でもなぜか僕は信じられないんだよ。」

「信じられないって何が？」

「君が大丈夫だって言うのがさ。」

「どうしてかしらね。本人が大丈夫だって言っているのに。」

「ああ・・・なあScully,そろそろ認めろよ、君はいつにも増して無口だぞ。」

いつもは遠回しにしか物を言わないMulderが、今日は珍しく早々と核心に踏み込んできた。
Scullyはわざわざその理由を説明する気にもなれず、小切手帳と青いパンフレットを固く抱き締めていた。

「それで？君の僕に対するこの冷遇の理由は？」

「別にあなたを冷たく扱ってなんかいないわ。疲れているだけよ。」

「昨日のことが原因かい？」
Mulderは前の車のブレーキランプを睨みながら訊ねた。

「さあ・・・いいえ、違うわ。あの話は素敵だと思う、条件もいいし。それでねMulder,もうすぐ私の産休休暇も終わるわ。だから私達の身の振り方について話し合った方がいいと思うの。」

ハンドルを握っていたMulderの手が一瞬固まった。
「身の振り方？どういう意味だい？」

Scullyはゆっくりと重い息をついて窓の外を見つめた。

「第一、君は本当にもう仕事に戻る気でいるのか？何も今すぐじゃなくても・・・お金に困っているわけじゃないんだし。」

「分かっているわ。」
Scullyは呟いた。

「僕が粉ミルクでもいいって言ったから怒ってるのか？」
Mulderは言いにくそうに先を続けた。
「このことでしつこく言い争うつもりはないけどさ、君が仕事に行っている間に僕がWillの世話をするとなれば、選択肢は一つしかないだろう？つまり、君が母乳の方がいいって主張するのは分かるけど、今日みたいに君がいない間にWillに泣かれても、僕にはあげれるものがないわけだし・・・。そういえばコリックについてドクターに聞いてみた？何かいいアドバイスを言っていなかったかい？ここに来るまでの間に考えたんだけど、母乳にこだわるんだったら搾乳器を買って君がその・・・絞って、冷凍保存しておけばいいんじゃないかな。とにかく――」
Mulderは俯いて打ち明けごとを話すように小声で呟いた。
「君がボストンのことで怒っているんじゃなきゃいいけど。」

Scullyは突然Mulderを殴りたい衝動に駆られた。
彼女はその衝動をぐっと堪え、手を伸ばしてMulderの足をポンポンと叩いた。
「その話はまだ決まったわけじゃないでしょう？後でゆっくり話し合いましょう。」

Mulderはハンドルを切ってガソリンスタンドの中に入った。
「すぐ戻るよ。」
そう言って逃げるように出て行った。

Scullyは後部座席の我が子を振り返った。
Williamはまだ歯の生えていない口に中に小さな握りこぶしを突っ込んで死んだように眠っていた。

どうしていまだに昼と夜が逆転しちゃっているのかしら？
もしかしたらこの子はヴァンパイアなのかも。
だって、この子が産まれたこと自体Xファイルだもの――

Scullyはそんなことをぼんやりと考えながら大きなあくびをした。
無性に濃いコーヒーが飲みたかった。
カフェインを３倍くらい増量したリッチなラテ。
しかし、授乳期間中にカフェインの採り過ぎは禁物なのだ。

「あなたが可愛い顔で産まれてきて本当によかったわ、William」
Scullyはそう呟くと相棒の方を見た。

ボストンなんて、あなた一体何を考えているの――？

ボストン大学。
昨日の夜、突然Mulderから打ち明けられた彼の再就職先だった。
まだ先方と本格的に話し合いはしていないというものの、心理学部の助教授として、申し分のない年俸で迎え入れてくれるとのことだった。
安定した職、社会的地位、大学の後ろ盾。
彼が心置きなく自分の研究を続けられる環境が整ったわけだ。

Mulderからこの話しを聞かされた時、Scullyは口の中が乾き、窒息しそうな感覚に襲われた。
ボストンに引っ越す気なのかとMulderに訊ねると、彼はしばらくの沈黙の後、毎週末にはDCに帰ってくるつもりだと答えた。
彼女とWilliamと共に過ごすために。

でも、そんな生活いつまで続けられるのだろう――？

その時、車のドアが開いて給油を終えたMulderが運転席に戻った。
彼はシートベルトを締めると、突然彼女の手を握った。
「なあScully，そんなに考え込まなくても全てうまくいくよ。」
彼は穏やかな声でそう言って彼女の手を引き寄せると、そっと手の甲にキスをした。

Scullyは予想外の彼の行動に固まった。
Mulderの唇が触れられた瞬間、彼女の身体に電気が走り、体温が一気に上昇したのが分かった。

所詮彼女はMulderには弱いのだ。
いつだって結局は彼を許してしまう。
粉ミルクのことも。
ボストンの件でさえも。

そして、そのことが余計彼女を苛立たせていた。

Scullyは引きつった笑みを浮かべてやんわりとMulderから手を放すと、膝の上に戻した。
先刻のDr.Speakeとの会話が彼女の脳裏に浮かんだ。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

「順調に回復しているみたいで私も嬉しいわ。ビタミン剤は飲み続けてね。もう通常の性生活に戻っても大丈夫よ。ところで、避妊する時はいつも決まった方法で行ってる？」

「ひ、避妊？」
Scullyは狼狽しながら聞き返した。
「あの・・・私がもう一度妊娠することはないと思うの。ドクターもご存知の通りWilliamは・・・予想外だったから・・・」

「予想外だったけど、あなたはちゃんと妊娠できたじゃない。二度目の妊娠だって有り得るわ。避妊法について一度も考えたことがないの？」
Dr.Speakeはそう言ってScullyにリストを見せた。
経口避妊薬、ホルモン注射、コンドーム、膣錠、ペッサリー・・・

しかし、ScullyはそのリストをDr.Speakeに返した。
「これから避妊が必要になるのか自分でもよく分からないの。もう少し考えさせて。」

普通の性生活に戻る――？
Scullyは頭を振った。

彼女とMulderがセックスをしたのは１０ヶ月半前の一度きりなのだ。
今となってははっきり思い出すのも困難なほど前の話だ。
しかもあの時は二人とも感情的になっていて、その場の雰囲気に流されるように関係を持ってしまった。
そして、Mulderとあの夜のことについて話し合う時間を持たないまま、彼はアブダクトされてしまった。

その後、彼は死んで、そして復活した。

普通の性生活――
この話をどうやってMulderに切り出したらいいのだろう？

二人はWilliamの誕生以来、同じベッドで眠っている。
彼らは互いを愛情を込めて見つめ合い、体に触れ合い、慎み深いキスを交わす。
しかし、彼らが起きている時間は全てWillam一色で埋め尽くされていて、それ以上何かをしようとする気など起きない。
時々Scullyは考えてしまう。
二人とも、Williamを魔法のシールドのように、互いを守る防御壁として利用しているのではないかと。

Williamが生後２週間目の時、彼らは一緒に暮らそうと決めた。
しかし、ここのところScullyは段々不安になってきていた。
Mulderは自分の部屋から段ボール箱を一つだけ持ってきただけで、それ以上の荷物を運び入れる素振りは全くなかった。
彼のアパートの管理人に部屋を引き払うことを告げたのかどうかも疑わしかった。
しかし、Scullyは彼にそのことを訊ねるのが怖かった。
Mulderには押し付けがましいとか、しつこいとは死んでも思われたくない。
それでも、一緒に暮らそうと決めて一ヶ月が経過したというのに、自分の衣類を洗濯したり、郵便物を整理するために週に何度も部屋に帰っているMulderを見ると不安が募った。

一夜の過ちの責任をとるために、彼は人生をあきらめて投げやりになっているのではないかと、Scullyは最近疑い始めていた。
もしくは、ボストンへ行ったきり、もう二度と彼女とWilliamの元へは帰ってこないかもしれない。

しかし、一緒にいて欲しいなどと頼む権利が自分にあるのかどうかも分からなかった。

彼女も一度はシングルマザーになる覚悟を決めたのだ。
一人きりで我が子を育て上げてみせると――
しかし、Mulderは墓場から舞い戻り、再び彼女の周りをうろつき始めた。
甲斐甲斐しく彼女にピザを持ってきたり、ラマーズ法のクラスにも参加した。
Williamを出産する時に至っては、白馬の王子の如くヘリコプターで参上し、彼女の命を救った。

嬉しそうにキスまでして、あたかも全ての望みが叶ったかのような顔をしていたのに・・・

この優柔不断男――
Scullyは運転席のMulderをギラリと睨み付けたが、当の本人はそんな彼女の気も知らず、呑気に微笑んでこうのたまった。
「そういえば僕も粉ミルクだったんだよScully，だからWilliamだって大丈夫さ。」

Scullyは憤怒で顔を赤くしながら俯き、震える手でパンフレットを捲った。
叫んじゃダメよ、これをよく読むの――

"テクニックその３：電子レンジ＆フリージング使いこなし

栄養のバランスのとれた食事を作るのは、外に出て働いている母親にとっては重要な課題。以下のメニューはそんなあなたにピッタリの手軽で簡単に作れる料理です。たくさん作って冷凍庫に保存しておきましょう。帰宅したらレンジでチンしてサラダを添えて出せば完璧！ベビーがぐずっている時でも素早く温かい食事が用意できます"

Scullyはその下に列挙されているメニューに見入った。

手早く出来るラザニア・チーズマカロニ・チーズヌードルキャセロール

やってやるわ――

「Mulder？」

「何だい？」

「途中でスーパーに寄ってくれる？ちょっと買いたいものがあるの。」



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


PM3：37

「こんなにたくさん買ってどこにしまうんだい、Scully？」

Mulderは大きな買い物袋を抱え、ヨロヨロ歩きながらリビングを通ってキッチンに進んだ。

彼がキッチンテーブルの上に買い物袋をドサリと置いた音が部屋に響き、授乳中だったWilliamが驚いてビクッと体を震わせた。
むずかって声を上げ始めた我が子に、Scullyは再び乳首を吸わせようとしたが、Williamは首を左右に振って手足をばたつかせ、更に大きく声を上げながら拒否した。

「あのさ・・・Scully，こんなにパスタを買ってどうするんだい？」
キッチンから出てきたMulderはそう言ったのだろう。
しかし、Williamの張り上げる声にかき消されてScullyの耳には届かなかった。

「今日はぐずっても無駄よ、William」
ScullyはWilliamにきっぱりとした口調で告げた。
「今日はダメ。分かった？ママはすることがあるの。」

「フットボールのチーム全員がありつけるくらいな量だぞ。」
Mulderがポケットに手を突っ込みながらキッチンのドアにもたれて訊ねた。
「一体何をするつもりなんだ、Scully？」

「Willを寝かせつけたら私はすぐに・・・」

Mulderはわざとらしく咳払いをしてScullyの言葉を遮った。
「もうすぐ４時だぞ。大人しくWilliamが寝ると思うか？」

その時、Williamがタイミングを見計らったかのように泣き出し始めた。

Mulderの顔が一瞬にして凍りついた。
ほら、きたぞ――
その顔はそう言っていた。

彼らにとって地獄の時間の到来だった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ＰＭ４：１０

Williamは体中の毛穴からエネルギーを放出しているかの如く、全身で泣き喚いていた。

ScullyはWilliamを抱いて、いつものルートを辿った。
ダイニングルーム、リビングルーム、廊下、寝室、寝室の窓から外を見て廊下に出る、再びリビングルーム、ダイニングルーム、テーブルの周りを２周、最初に戻って繰り返し。

「換わろうか？」
MulderがWilliamの泣き声に負けないように大きな声を張り上げて訊ねた。
彼の眉間にはたくさんシワが寄っている。
Scullyには分かっていた。
彼は両手で耳を塞ぎたいのを必死で堪えているのだ。

毎日、夕方の４時から７時まで彼女とMulderは交代で泣き叫ぶWilliamを抱いて部屋の中を歩き回るのが日課になっていた。
Scullyは、最近ではこれは神様が自分に課した修行なのだと思うことにしていた。
この苦行を終えた時にはきっと新境地を開いていることだろう――

「もう少しやってみるわ。」

「疲れたら言ってくれよ、いつでも換わるから。」
Mulderはそう言ってソファにぐったりとうずくまり、テレビのスイッチを点けた。

Scullyは歌を歌ってあやしながら腕の中の我が子を左右に揺らしたが、いつものようにWilliamは泣き続けた。
育児雑誌に書いてある通りにしているのに――
Scullyは苦々しく思った。
一旦泣き始めると、Williamには何をやっても効果がなかった。

腕の中でポンポンとはずませるとWilliamは叫び始めた。左右に揺らしても叫んでいた。背中をさすると更にボリュームを上げ、部屋中にキンキンと響く声で激しく泣き叫んだ。

「お願いよWill，頼むから泣き止んでくれる？」
Scullyは殆ど懇願するように呼びかけていた。

彼女は腕に力を入れてしっかりとWilliamを抱きしめると、ペースを上げて歩き始めた。
廊下、寝室、寝室の窓から外を見て廊下に出る、再びリビングルーム・・・

Williamの泣き叫ぶ声は金切り声に変わった。

ダイニングルーム、テーブルの周りを２周、最初に戻って繰り返し・・・

――Scullyの中でぶつりと何かが切れた。

「ちょっと！いい加減にしてよ、Will！！」

血圧が一気に頂点まで上り詰めるのを感じながらScullyは３歩で部屋を横切り、出来るだけ腕を伸ばしてWilliamを遠ざけながら叫んだ。
「Mulder！」

不意に大きな声で名前を呼ばれたMulderは驚いてソファから飛び上がった。
「はい！」

「換わって！」

MulderはWilliamの様子を一目見て言った。
「オムツを替えてみるよ。そうしたら少しはマシかもしれない。君は気分転換にシャワーでも浴びてきたらどうだい？それとも・・・」

「私はキッチンにいるから。」
Scullyは唸りながら宣言してキッチンへ消えた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ＰＭ４：３２

マカロニ。

ロティー二。

コンキリエ。

様々な種類のパスタの箱がキッチンテーブルの上に並べられていった。

モッツァレラ。

リコッタ。

ベルビータ（ファミリーサイズ）。

それらのチーズは冷蔵庫の２段目に置かれ、野菜は大きさと色によって几帳面にソートされ、キャンベルのクリームマッシュルームスープの缶はカウンターの上に並べられていった。

Scullyは台所用品を選ぶ時は実用性だけではなく、見た目にも上品で美しいということに重点を置いていた。
そして、毎度キャビネットや引き出しを開ける度に、それらの台所用品が一分のスキもなく、完璧に陳列されているのを見ることで深い自己満足を覚えていた。
しかし、今日は彼女自慢のストレーナー、おろし金、ステンレス製のボウル、丁寧な細工の施されたスイス製の銀食器やスパチュラ、フランス製のグラスやデンマーク製の皿等々は、買ってきた食糧をストックするために定位置から引きずりだされ、無造作にテーブルの上に置かれていた。

彼女はキャビネットから巨大な銅製のパスタ鍋（未使用）を取り出し、水を一杯に満たして点火したガスレンジの上に置いた。
そして、パンフレットをテーブルの上に広げ、レシピと見比べながらパスタの具になる材料をカッティングしていった。

ビーフ、マッシュルーム、タマネギ、ナス、ガーリック、ズッキーニ、トマト、ニンジン・・・

初めて使うナイフも切れ味が良く、彼女の手によく馴染んだ。

包丁を振うことに集中するかたわら、意識の片隅ではWilliamがまだ泣き続けていることにScullyは気付いていた。
時計を見るとまだ４時４７分だった。納得だ。
地獄の時間真っ只中だ。

Williamの泣き声が大きくなるのに比例して、カッティングボードに叩きつけるナイフの音も大きくなっていった。

「Scully」

ズッキーニとナスは切っていても快感だった。
まるで人体を解剖する時のように、果肉はスッパリと鮮やかに切れ、形の整ったキューブ型へとその姿を変えていった。

「Scully」

タマネギは少々難儀だった。
滅多に料理をしない彼女にとっては、そのいびつな球状の物体を均等にスライスしていくことは至難の技だった。
すぐに刺激で涙が滲み、ぼやけた視界でカッティングボードの上を転がるタマネギを追いかけていた。

「Scully！」

「何か用なの！？」

目を真っ赤にして、ぶつ切りナイフを片手に必死の形相で振り向いたScullyを見て、Mulderは３歩退いた。
「ええと・・・背中をさすって弾ませてるんだけど一向に効き目なしみたいなんだ。」
そして彼は目を大きくしてキッチンの中を見渡した。
「聞いても構わないかな・・・一体ここで何をしているんだい？」

キッチンの中は熱気が篭っていた。
パスタ鍋の中の水も水蒸気とともにシューシューと音を立て始めていた。
Scullyは汗で頬にぺったりと張り付いた髪の毛を払って言った。
「私は月曜日から仕事に戻るの。だから今から料理を作ってフリーザーの中に入れておくのよ。」

Mulderの目が一際大きくなった。
「フリーザー？」

「そうよ。」

「最後に僕が君のフリーザーの中を覗いた時は、冷凍食品の箱が２、３個と、賞味期限の切れたトーフアイスのコンテナしか入っていなかったぞ。」

Scullyは冷たい視線をMulderに浴びせた。
「何が言いたいの？」

「僕はただ・・・君がフリーザーを有効活用するようなタイプには見えなかったから。こんなの君らしくないよ。」

「じゃあこんな私にも慣れて。今の私のは責任があるの。」

「以前の君には責任がなかったと？」

「Mulder，聞いて。あらかじめ調理しておいてフリーザーの中に入れておけばあとは解凍するだけで済むでしょう？時は金なり。これで私が家にいる時は子供といる時間がたくさん持てるわ。」

「"子供"っていうのは、"僕達の息子のWilliam"のことかい？」

名前を呼ばれたことに反応したのか、少しだけ治まっていたWilliamの泣き声が再び大きくなった。
Mulderは腕の中で我が子を弾ませ、背中をさすってテーブルを２周した。

「君は育児で疲れているのに、わざわざ今日こんなことを始めなくても・・・別の日でいいじゃないか？」

「今日はもう金曜日よ。３日後に仕事に復帰するには、出来ることは今からしておかなくちゃ。」

「Scully，僕はまだ無職なんだよ。Willと僕は一日中一緒にいられる。僕はグルメでもないし、お腹が空いたらサラダくらいは自分で作れる。君が慣れない料理にかかりっきりになる必要はないんだ。」

Scullyは黙り込み、Mulderを見つめた。
やがて唇の端を上げて微笑んだかと思うと、くるっとカッティングボードの方に向き直り、狂ったようにズッキーニを切り刻み始めた。

「Scully・・・」

「弾ませて背中をさすって、それから揺らすのよ。あなた、揺らすのを忘れてるわ。分かったら一人にして。」

耳をつんざくような泣き声がキッチンに響き渡り、Mulderは顔をしかめながらWilliamをもう一方の腕に抱き直した。
「それで・・・仕事に戻る前にリラックスしたり、楽しい時間を持つことはしないで・・・料理をするのか？」

「そうよ、料理をするの。」

「でも、君は普段料理なんてしないだろう。君が料理をするのなんて見たことないよ。」

「私には子供がいるのよMulder，今日から私は料理をするの。」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ＰＭ　５：０２

Williamは一向に泣き止む気配を見せなかった。

Scullyはフライパンを取り出して点火し、オリーブオイルを垂らした。
しばらくして熱せられたオリーブオイルが柔らかく溶けだしてくると、野菜を入れて手早く炒め、冷蔵庫からモッツァレラチーズを出しておろし金で削っていった。

「何を作っているんだい？」

チーズを削ることに没頭していたScullyは、背後から不意に声をかけられてハッと振り向いた。
そこには、いまだけたたましく泣き続けている我が子と、心配そうに彼女の様子を窺っているMulderがいた。
「ラザニアとジャンボシェルとビーフとヌードルの煮込みとチーズマカロニよ。」

「一般的だな。」
Mulderは首を振りながらそう言うと、Williamを抱き直してリビングへと戻っていった。

Scullyがトマトソースに取り掛かっていると、今度はMulderが考え込むような表情で再びキッチンへ入って
きた。
「作った物が全部入るほど君のフリーザーは大きかったか？」

多分に嫌味を含んだその質問に、Scullyはしばらく考えてから答えた。
「何とか詰め込むわ。」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ＰＭ５：１０

Scullyは両手を上げて伸びをし、凝った筋肉をほぐすと、再びパンフレットのレシピに見入った。

"カッテージチーズ・・・１ 1/2カップ
リコッタチーズ・・・１ 1/2カップ 
混ぜてよくすりつぶす。"

ここは彼女が楽しみにしていたパートだった。
Scullyは大きなボウルにチーズを放り込むと、カウンターの上のジャーから木製のスプーンを取り出した。

今やパスタを茹でているお湯はぐつぐつと煮え、フライパンの中のパスタソースはふつふつと煮立っていた。
Scullyは忙しく歩き回りながら、それらが焦げ付かないように中身をかき混ぜ、チーズをすり潰していった。

MulderはWilliamの背中をさすり、リビングとキッチンの間を行ったり来たりしながら、彼女が作っている料理を眺めてはため息をついていた。

Scullyが２つ目のフライパンを取り出して点火した時、Mulderの我慢は限界に達した。

「もう十分だろうScully，つまり、君が一度に何でも料理できるのは分かったよ。でも、ガスコンロの上はもう一杯だし、キッチンの中は蒸し風呂みたいだ。」

「パスタソースがもう煮立っているのよ。ソースの中にお肉を入れて絡めなくちゃいけないの。もう１０分早くお肉を炒めておくべきだったわ。」

「それは僕のために作っているのかい？それとも君も食べるつもりなのかい？」

Scullyはそれには答えず、冷蔵庫の中から巨大な挽き肉の塊を取り出すと、フライパンの中に放り込んだ。

「随分と大きな塊だな。でも君は挽き肉なんて食べないだろうScully？」

Scullyは再び彼を無視して、スパチュラで叩きながら挽き肉をほぐしていった。

「知ってるか？君のキッチンテーブルの上にはベルビータチーズのファミリーサイズが乗っているんだぞ？」
Mulderは苛ついた声でまくし立てながらScullyに近づいた。
「Scully，聞いているのか？ついでに言わせてもらえば、パスタは炭水化物だ。君のレクチャーによれば炭水化物の採り過ぎは肥満に直結する。８年間君を見てきたけど、僕は君がサラダ以外の物を食べるのを見たことがない。サラダと、あと、ヨーグルトと、ええと・・あれだ。あの、アジアンマーケットで買ってくる気色悪いグチャグチャしたやつだけだ。」

Williamが背中を反らせて泣き叫び、Mulderは危うく我が子を落すところだった。

「弾ませるのを忘れてるわMulder，弾ませて。」

「弾ませてるさ。」
MulderはWilliamを小刻みに揺らしながら反論した。
「僕が理解できないのはさ、どうして君が今それをしなくちゃいけないかって事なんだ。君が仕事に戻ったとしても、僕がお腹が空いて困ったらテイクアウトもあるんだし。君が今一番必要なのは睡眠をとることだと思うんだけど？」

Scullyはテーブルへ向かい、コンキリエの箱に手を伸ばして引き千切るように開封した。
パンフレットのレシピと見比べた後、その貝の形のパスタを、一回ずつ言葉を区切りながら放り込んでいった。

「睡眠は（ぽちゃん）今の私には（ぽちゃっ）必要ないわ（ぼちゃぼちゃっ）。今一番に（ぽちゃん）考えなくちゃいけないのは（どぼん）Willのことよ（どぼっどぼっ）。」

「Willはまだ離乳食さえ必要ないんだ。その貝の形のパスタを茹でることがどうしてWillのためになるんだ？」

Williamはグーに握った手を自分の口の中に突っ込み、音を立てて吸いながら、片足ずつ足をばたつかせて暴れ始めた。

「きっとWillはお腹が空いているんだよScully」

「いいえ、あなたが背中をさすってないからよ。さすったら大人しくなるわ。」

「ほら、Williamを見てみろよ。絶対お腹が空いているんだ。手を休めてWillに――」

「Willがこんな風に泣いているときはミルクを飲まないって知っているでしょう？」

MulderはWilliamがScullyの視界に入るまでぐぐっと近づいた。
「今日は飲むかもしれないだろ。やってみもしないうちから決め付けるなよ。」

ScullyはきつくMulderを睨みつけた。
「飲んでもどうせすぐに吐いちゃうわ。」

「そうかもしれないさ。でもWilliamは現に今こうして泣いているんだ。君に側にいて欲しいんだよ。君から愛されているって確認したいんじゃないのかな。」

「Willは私が愛しているって分かってくれているわ。」
Scullyは赤黒いパスタソースを暴力的にかき混ぜながら呟いた。
「むしろ、Willが不安に思っているのはあなたの愛情じゃないかしら。」

「何だって？」

Scullyは自分が今言った事を即座に後悔した。
しかし、考える前に口から出てしまったものは仕方がない。
Mulderが更に一歩詰め寄ってきたが、彼女は顔を上げることが出来なかった。

エスカレートするWilliamの雄叫びに合わせ、Scullyも心の中で一緒に叫んでいた。

「今何て言ったんだ？」

Scullyは大きく息を吸って、ゆっくりとソースをかき混ぜることに集中した。

「僕がWillを愛していないと、君はそう思っているのか？」

「そうかもしれないわね。」
またしても、彼女の意思に反して言葉が口を突いて出た。

Mulderは口をあんぐりと開け、この場から立ち去るかどうか逡巡したが、意思の力でとどまった。
「今日の君の態度は全部そのせいか？僕と口をきこうとしないのも、この馬鹿げた量の買い物も、突然狂ったように料理を始めたのも・・・僕がWillを愛していないからだっていうのか？」

Scullyは聞こえない振りをして、ひたすらパルメザンチーズの入ったチーズシェイカーを振っていた。

Williamがそんな彼女を馬鹿にするかのように泣き声を張り上げた。

「揺らして、Mulder」

「揺らしてるさScully，ちゃんと揺らしてるよ。昼も夜もこうやってWilliamを抱いて、オムツだって替えてるんだ。それなのに、僕がこの子を愛していないなんてよくも言えたもんだな。他に僕にどうして欲しいって言うんだ？」

「Williamに約束してよMulder，ずっとこの子の父親でいるって。それがあなたに出来ることよ。」

「どういう意味だ？君に言われなくてもこれから毎日Williamと一緒に過ごすさ。僕はこの子の父親だからね。それ以上何の約束がいるっていうんだ？」

「私にはそんな生活が長くは続かないような気がするのよ。」
Scullyはチーズがごってりと付着したスプーンをMulderの顔に突きつけた。
「私がそんな風に感じるのはなぜだか分かる？」

「くそっ！僕がそんなこと知るわけないだろう！」

Scullyはスプーンを持っていた手をダランと降ろし、パスタを茹でていた鍋へ向かった。
Williamが３回金切り声を上げ、宙を蹴った拍子に履いていた靴下が脱げた。

「弾ませてよ、Mulder！あなた弾ませてないのよ！！」

「弾ませてるさ！！ちゃんと見てから言えよ！！」

Scullyはミトンを二つ持ってパスタ鍋の取っ手を掴み、進行方向にいるMulderを肘で押しやりながらシンクへ向かった。
手早く水切りざるにパスタを空けると、真っ白な湯気が天井まで上り、彼女の体を包んだ。

長い長い沈黙――

それを破ったのはWilliamの弱々しい泣き声だった。

「・・・どうして泣いてるんだ。」
Mulderの声は途方に暮れていた。

「泣いてなんかいないわ。湯気が目に沁みただけ。」
Scullyは激しい絶望感に襲われ、シンクに寄り掛かって背中を丸めた。
もうおしまいだわ、私達が普通の家族になるなんてやっぱり無理だったのよ――

Mulderが近寄り、彼女の肩に手を置いた。
「今日の検診で何かあったのか？僕に知らせることがあるんじゃないのか？」

Scullyは固く目を瞑った。
いっそ吐いてしまいたかった。
吐いて、この恐怖が少しでも薄れるなら。
Williamが誕生して以来、毎日少しずつ身体の中に溜まってきたこの恐怖――

再びMulderが自分の前からいなくなってしまったら、彼女にはもうその先を生きていく自信がなかった。

Mulderの声は低く掠れていて、殆ど聞き取れないほどだった。
「とにかく、話し合わないか？」

Scullyはシンクの端を掴み、泣き出しそうになるのを堪えながら訴えた。
「Mulder，私・・・頭がおかしくなりそうなのよ。」

Mulderは彼女の頬に手を伸ばし、汗や涙や湯気を拭っていった。
「Scully，Willが産まれてからまだ間もないんだ。君が不安になるのは・・・普通の事だと思うよ。」

"普通の――"
またこの言葉だ。

普通の家族。

普通の性生活。

目を開けてWilliamを見下ろすと、今にも眠りに落ちそうになっていた。
一生懸命口に突っ込んだ手を吸いながら、重そうな瞼で瞬きをしている。

ほんの数ヶ月前まで、この家に彼女は一人で生活していた。
一人は寂しいけど気楽だ。
でも、今はもう一人ではない。
彼女の態度は明らかにMulderとWilliamを怯えさせていた。

「Scully，今日病院で何を言われたんだ？」

Scullyは深呼吸をすると、出来るだけ早口で言った。
「もう普通の性生活に戻っても大丈夫だって。」

Mulderは明らかにホッとしたように顔を綻ばせた。
「Scully，それは・・・」

「でも、普通の性生活と言われても、元々私にはそんな物は存在していなかったわけだし。」

その言葉に、Mulderは平手を食らったかのように顔をしかめた。

「ドクターは私に決まった避妊法があるかどうか聞いてきたの。でも、私は何て答えていいのか分からなかった。私達はもう一ヶ月以上も私と同じベッドで寝てるけど、あなたは一度も・・・それに、一緒に住むことに決めたけど、あなたは全然荷物を・・・おまけに就職先が決まったと思ったら州外で・・・」

MulderはScullyの言葉にショックを受け、目を瞑って宙を仰いだ。
「違うよScully，違うんだ。聞いてくれ、頼むよ。」

「ごめんなさいMulder，あなたがWillを愛していないなんて言うつもりはなかったの。でも、私にはどうしてもあなたがここから出て行ってしまって、もう帰ってこないような気がしてならないのよ。その疑念は日を追うごとにどんどん強くなるの。」

「それは君の誤解だよScully，僕のシャツのポケットを覗いてごらん。」

「なぜ？」

「いいから、見てみて。」

MulderのＴシャツのポケットに指を入れると、彼の心臓の鼓動が彼女の指先に響いた。
中には長方形の紙片が入っていた。
取り出してみると、２枚の名刺だった。

Scullyは怪訝な顔つきで名刺を裏返した。
見たことのあるロゴが目に飛び込んできたが、何の会社だったか思い出せなかった。
品の良い中年の女性の顔写真と、氏名、電話番号、アーリントンの住所が書かれている。

「それで？」

「２枚目も見て。」

困惑しながら、Scullyは２枚目の名刺にも目を通した。
それは１枚目の名刺と何ら変わりはなかった。
ただ、写真だけが中年の女性ではなく、頭の禿げた、ストライプのネクタイをした男性のものになっていた。

「リマックス・・・」
名刺に記載してあるその会社名を呟いて、Scullyはようやくそれが何の会社なのか思い出した。
「あなた、不動産会社の人と連絡を取っていたの？」

Mulderは大きく頷いた。
「君、最近何か思い詰めているみたいだったから、内緒にして驚かせてやろうと思っていたんだ。ネットで物件を探して、君がいない間にWillと見に行ってみようかなと思ってね。で、最終的に３つくらいに候補を絞って、最後は君に決めてもらおうと。」

「決める？」

「ああ。」

「家を買うの？」

「そうだよ。」

「誰の？」

「誰の？僕達のに決まってるじゃないか。」

「でも・・・ここで一緒に住むって決めたじゃない。」

「そうかな？＊一緒に＊住むことは決めたけど、場所までは決めてなかったはずだけど？」

Scullyは状況を飲み込めないままMulderの顔を見上げた。

「僕達家族の家が欲しいんだ。新しくて、もっと広い家が。」

「でも・・・ボストンの話はどうなるの？」

「もちろんボストンの物件も検討しているよ。この話を受けるんだったらボストンに住むことになるからね。そうなったら君も向こうでのんびり仕事を探せばいいさ。なあScully，この話は僕達にとって大きなチャンスになると思うんだ。」

「私達？」

「君は来週にでも復帰すると言っているけど、ＦＢＩに戻ることが必ずしも最善の道だとは思わないんだ。幸い、大学の講義は来年の１月からじゃないと始まらないし、まだ時間はたっぷりとある。だから、しばらく様子を見てもいいんじゃないかな。」

「・・・あなたは私とWillにボストンに付いて来て欲しいと思っているの？」

「当たり前じゃないか。」
今度はMulderが当惑する番だった。
「君なしでどうやって行けって言うんだい？夕べ何か誤解を与えるような説明をしたんだったら謝るよ。それにしても、君がこんなに思い込みが激しいなんて知らなかったよ。」
Mulderは頬に張り付いた彼女の髪の毛を耳の後ろに押しやった。
「Scully，僕は君に付いて来て欲しい。心からそう思っている。」

「でも・・・じゃあ・・・つまり・・・？」

「どこへ行っても何とかなるんじゃないかな。」
Mulderはそう言ってScullyの手を取った。
「二人一緒だったらね。」

Mulderの表情は誠実で、瞳は希望に満ちていた。
Scullyは降りてきた唇を素直に受け入れた。

熱く濡れたMulderの唇。

それは誓いの口付けだった。

Scullyは雲の上を歩いているような浮遊感を感じ、Mulderにもたれかかった。
「信じていいの？」

「信じてくれ、Scully，僕を信じて・・・」




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