Book II: Pre-apocalyptic romance on a per diem


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中西部と言えば思いつくことは腐るほどある。アメリカの穀倉地帯、バイブル・ベルト（※原理主義的なキリスト教篤信地帯）、琥珀色の穂の波などだ。良民たち。実直な生活。そして見渡す限りに広がるとうもろこし畑。

だが、長時間ドライブの中休みとして、彼らがオアシスと称した場所は、ミスティック・ピザ・ハットだった。ただし、ふたりともその映画を見てはいない。その店は年がら年中空っぽで、Dr．ゼイウス――『猿の惑星』に出てくるブロンドの猿人そっくりの老婆がひとりで仕切っていた。老婆はウェイトレス兼コック兼会計であり、
この最果ての地にひっそりと建つレストランらしき店の店主でもあった。駐車場に車はなく、他に客はひとりもいない。そして、半径50マイルにとうもろこし畑以外のものは存在しなかった。

広大なとうもろこし畑の真ん中に、ぽつんとピザ・ハットが建っている。

「なかなかの景観ね。」
初めて車でそこを通り過ぎた時、スカリーはそうコメントした。彼女は政府御用達のブルーのフォード・トーラスの助手席で、律儀にシートベルトを締めて座っていた。ミステリー・スポット、オカボジー湖へ向かう道中のことだ。

あれは1993年の8月。当時の彼女はまだリクルート・スーツを着用し、地毛である赤みがかったブロンドのままだった。それは"以前"の時代だ。スカリーがアブダクトされる以前の話。彼女の父親や姉の死が訪れる以前。そしてモルダーの父の死もまだやってこなかった頃―――彼らはパートナーになりたてで、自分は彼女に好かれて
いるのかどうか、モルダーにはまだ何とも言えなかった。彼女は寛容で、頼りになり、自分を頭が少しイカれた男よりはマシな評価をしてくれるように思えた。だからといって、それを好意と結びつけてよいのかどうかは、判断がつきかねた。

自分としても、彼女を気に入ってよいのかどうか、揺れているところがあった。

「ミステリーサークルを見逃すな。」
ハンドルを握る彼は、口に爪楊枝をくわえ、変人の上官ぶりを存分に楽しんでいた。どうせ笑い種になるのなら、ジョークを言って笑われたい。
「横道に反れた出張はお手の物だ。」

「ケビン・コスナーがここに野球場を作ったんじゃなかった？『フィールドオブドリームス』だったかしら。それとも『さよならゲーム』？彼の野球映画って、どれも同じに見えるのよね。」

車のスピードを落としながら、モルダーは彼女の方を向いて、えらそうに訓示を垂れた。
「ケビン・マイケル・コスナーの演技力を馬鹿にするもんじゃない。『JFK』があるだろ。」

「誰も馬鹿にしてないわよ。」
スカリーは大真面目に答えた。
「むしろ大ファンだもの。私のベッドルームには彼の祭壇があるくらい。サイン入りの生写真が、キアヌ・リーブスの等身大切抜きの隣に飾ってあるわ。」

彼女は退屈そうに、首の金のクロスをいじり、窓の外を眺めていた。

モルダーは爪楊枝をひっくり返すと、反対側をしばし齧った。

「祭壇は嘘だろ、スカリー。」

「とんでもない。」
疑わしいことに、彼女の唇の端が引き攣った。

「ロビン・フッドだぞ？」

「天才は傷つきやすく、誤解されやすいのよね。　見て―――ピザ・ハットだわ。」

モルダーは爪楊枝を噛みながら、ウィンカーを出し、やはり彼女が好きだと渋々認めた。

それから時が経ち、また別の事件で、またブルーのフォード・トーラスに乗った1997年4月20日。彼女は初めてモルダーの地下の巣に足を踏み入れたダナ・スカリーから、数年と世界ひとつ分違う場所にいた。科学で武装し、軽蔑を眉で表明して見せたあの女性はすでに遠い存在だった。彼女はより厳格で、用心深く、繊細で危険な刃
の先のように磨かれていた。姉と穢れなさを失い、彼の探求がそのまま彼女のものとなっていた。モルダーがそうだったように、彼女の生活はXファイルに奪われ、かつての友人たちとは疎遠になった。スカリーは彼の味方であり、対極であり、彼女なしでこの旅を続けることなど、モルダーには想像もできなくなっていた。ふたりは
パートナーで、親友で、時には反発もする―――それ以上に名状しがたい何かがあった。

そして、彼女の鼻腔と脳の間に突如生まれた小さな腫瘍が、モルダーの世界を崩壊の危機に追い込んだ。いわゆる癌の時代だ。

彼女は以前より短い髪をストレートにブローして、やや明るめの色に染めていた。体重が落ち、ブラウス越しにあばらが浮いてみえるほどだった。まるで自らの生の終わりを悼むかのように、もっぱら黒い服を着て、デスクを要求し、任務を拒絶した。それは彼に対する拒絶でもあった。黒髪で黒い瞳の見知らぬ男と一夜を共にし、こ
れが彼女の満足する生き方だと、そう言った。あるいは満足して死ねると、そう言いたかったのかもしれない。オックスフォードで学んだ心理学と、FBIで培ったプロファイルの技量をもってしても、そこに関連性を見出すまで、あれから2年の月日を要した。

「いつものかい？」
1ダースもある空のブースの端にモルダーが腰を落ち着けると、Dr.ゼイウスが注文を訊ねた。

自分たちに定番があったとは知らなかった。フランチャイズ経済の法則にはあらゆる点で矛盾するが、この3年半、彼ら以外に客はなかったのかもしれない。

「この前は何を注文したかな。」

「ミディアムサイズ、チーズ増量。トッピングは、グリーンペッパー、バナナペッパー、ブラックオリーブそれにマッシュルームをダブルで。」
Dr．ゼイウスは淡々と答え、最後にこう付け加えた。
「飲み物はダイエット・ソーダを二つだね。」

モルダーは瞬きをひとつ返し、それでいいと告げた。

スカリーはトイレに行っていた。駆け込む回数が頻繁になっていたが、その事実に彼は気付いてはいけないことになっている。先ほども途中で彼に車を停めさせ、スカリーは側溝に吐いていたが、その事実にも、やはり気付いてはいけないことになっていた。二人があえて口にしない話題―――"癌"は新たに追加された禁句だった。

モルダーの未来は、彼女の命にかかっているなど、スカリーは夢にも思っていなかったようだ。彼はスカリーの持つ能力以上に、彼女に価値を置いていた。傷を縫い合わせ、薬物検査をし、悪者の体のど真ん中を撃ち抜くだけの女性ではない。スカリーのおかげで彼はノーマルでいられた。彼女は碇であり、重心だった。モルダーに残
された人間性と言うべきものの生命線―――その彼女が邪悪な暗流に呑み込まれ、日ごと、そして出血があるたび、自分の手から引き離されていく気がした。

「踊ろう、スカリー。」
彼女が戻ると、モルダーはリクエストした。古いジュークボックスに、コインを数枚放り込んで、ジム・モリソンを召喚する。スカリーとのダンスを、彼は時折夢見ていた。煙るクラブの一角で、ロックの神様たちの曲に乗って、踊り明かす。ビールをおごり、ミュータントは一切登場しない俗世間の会話に興じる。普通の男と女のよ
うに、笑って、ことによると抱き合って、生きる―――。

スカリーは首を振り、ブースに身を滑らせると、口中の後味の悪さを呑み込んだ。

「いいだろ？踊ってくれよ。リザード・キングだぞ。」
耳に残るサイケデリックな曲調に動きを合わせ、モルダーは彼女を口説いた。
「"Riders on the storm・・・"」
ついでに歌まで歌い出す。

スカリーは無視を決め込み、ソーダを運んできたDr．ゼイウスに声を掛けた。
「お水をいただけないかしら。」

「彼氏のオーダーはダイエット・ソーダだったよ。」

「申し訳ないけれど、水とサラダに変更してもらえます？」

「それにスティックパンもつけてくれ。」
歌の道を捨て、テーブルにふらり舞い戻りながら、モルダーが提示する。

スカリーは再度首を振り、こめかみを揉んだ。

「車からケースファイルを取ってこようか。話し合いができる。」
辺鄙な田舎を残り3時間ドライブするというのに、さも機会は今しかないように、彼は提案した。

再びの短い拒絶。
「いらないわ。」

「タイレノールは？」

「それより、あの騒音を消してくれるとありがたいわ。」
スカリーはいらつき気味に言った。

肩を落としてジュークボックスまで足を運んだものの、オフ・ボタンが見つけられなかったので、機械に強い彼は、ボックスの裏に手を伸ばし、コンセントを引き抜いた。ジム・モリソンの人を酔わせる歌声が間延びして途絶え、赤と紫のライトが小さくなって消えた。

両手をポケットに突っ込んで席に戻ると、スカリーは運ばれてきた背の高いプラスチックのコップと睨み合っていた。たった一口飲むのにも、自分の胃が信用しきれないのだろう。

「スカリー・・・」
モルダーが声をかけても、彼女は顔を上げなかった。

こんなことがあっていいはずがなかった。彼女は若く、目の前には輝く未来が広がっている。家庭を持ち、子供を生んで、犬を飼い、家にはミニバンと白い杭柵―――夢見たすべてを手に入れる資格があるのだ。

もちろん、彼女の夢が何なのか、モルダーには皆目見当もつかなかったが、少なくともミュータントやUFOとは無縁のはずだ。

「スカリー、具合が悪いんだろ。DCに戻ろう。空港に電話して、帰りの便を予約する。」

「だめよ。事件があるわ。私なら大丈夫。」

「大丈夫じゃない。現に具合が悪いじゃないか。」

スカリーはストローの包みを破って、コップに突き刺した。
「私じゃ具合が悪すぎて、あなたの背中もカバーできないと言うの？」

スカリーが挑発する。おなじみのゲームだ。素っ気なく防戦的な彼女と、ぞんざいで隙のない彼が交戦する。そして各々のコーナーへ退却し、己の傷を舐め、次のラウンドに備えるのだ。互いに張り合うほどに、モルダーはわからなくなっていった。寛大なパートナーでいられる時間は、あと何日残されているのだろう。

「そういう意味じゃない。」

「それなら何よ、モルダー。」

氷の入った水を虐げる手を止めて、スカリーは冷ややかな視線を向け、すぐさま言い負かす心積もりで、彼の言葉を待った。

「よそう、スカリー・・・喧嘩はしたくない。ここのところずっと、君がまともに食べるのを見ていないし、飲む薬の量だって半端じゃない。いつも疲れて見えるし、震えている時もある。鼻血も頻繁だ。そんなに痩せて・・・それなのに、君は僕に話そうとしない。癌が快方に向かっているのか、悪化しているのかそれすら―」

「悪化よ。」
そのシンプルな一言で、彼は胃が搾り取られる感覚に襲われた。
「腫瘍は大きくなっているわ。」

唇は動くのに音をなさない。恐怖が冷たい霧のようにモルダーを覆った。

「頭痛はひどくなる一方。耳鳴りもする。鼻血もあるし。このまま腫瘍が成長して、視神経を圧迫するようになれば、視覚障害を併発するでしょうね。発作や痙攣も同様よ。精神状態も影響を受けるようになるわ。意識の混乱や、短い記憶障害、判断力の衰え、失語・・・」
各種症状をスカリーは他人事のように挙げ連ねた。
「あなたの言う通りよ。私にはこれ以上現場は無理・・・ふたりの身を危険にさらしかねない。デスクワークが関の山だわ。現場では、他のパートナーをつけてもらって。」

モルダーは聞く耳を持たず、首を振り、別の情報を求めた。
「医師はどんな治療を施しているんだ？」

「手は尽くしてもらっているわ。来週検査があるから、またわかることがあると思う。」

「病状の進行について？」

「すでに末期よ、モルダー。問題になるのは余命だけ。」

彼は喉につかえていた悲痛に満ちた息を吐き出した。
「・・・どれだけなんだ？」
訊ねる声は自分のものとは思えないほどに落ち着いて聞こえた。

「長くて数ヶ月でしょうね。限界まで仕事はしたいと思ってる。する必要があるの。仕事が・・・仕事が私に残されたすべてだから。」

「それは違う。」
滑らかなテーブルの上に置かれていたスカリーの手をモルダーの手が覆う。
「スカリー・・・そんな風に言わないでくれ。遣り残したことがあると言っていたじゃないか。その通りだよ。君には前途がある。それに、僕には君が必要だ。未完の僕を残していくなよ。下絵もいいところだぞ。」

スカリーはふたりの重なった手と、自分の手の甲を撫でるモルダーの指の動きをじっと見つめていた。

「またエディ・ヴァンブラントにすり替えられた？」
そうだとしても取り立てて違いはないとでも言う口調で、スカリーが訊ねた。

モルダーが首を振る。
「いいや、違うよ。　家に帰ろう。いいね？」

そこでようやく彼女は承知した。帰りの飛行機では、DCに着くまでずっと、スカリーは彼の肩にもたれて眠り、荒っぽい着陸時には彼の手をしっかり握っていた。モルダーは彼女のしたいままにさせた。

1999年の10月13日。その後だ。体外受精の試みも、癌も、南極も、エミリーもダイアナも、いろいろなことが過去に起こった。CGB・スペンダーの医師団にばっさりやられたモルダーの髪はまだ伸びかけだったが、手術の傷痕は薄くなり始めていた。スカリーは黒を着続けていたが、シルクやカシミアといった、より柔らかな素材を纏うようになり、不意に触れると心地よかった。稀に見せる彼女の笑顔からは翳りが消え、機嫌を損ねたら後が怖いと存分に思い知らせていた。

モルダーは、ミスティック・ピザハットのジュークボックスに屈み込むようにして、選曲に余念がなかった。
「グー・グー・ドールまであるぞ、スカリー。彼らの歌は世代の声だとニュースウィークで言っていた。」

スカリーは疲れたのか、首を回しほぐした。
「私たちの世代ではないわ。」

「僕らには共感できないとでも？」

「グー・グー・ドールの曲名をひとつでも挙げられる？モルダー」

彼は白い歯を見せてにやりと笑うと、ビースティ・ボーイズを真似たとっておきのポーズをとって、口ずさみ始めた。
「"Some...Body once told me the world was gonna roll me-"」

「スマッシュ・マウスね。甥がシングルを持ってるわ。」
彼はよほどがっかりした顔をしたらしく、スカリーが補足した。
「それが唯一持っているシングルらしくて、24時間かけっぱなしよ。グロテスクな催眠術ね。一種のマインドコントロールだわ。ティーンがこぞってバギーパンツとニットのスキー帽を買うように煽っているのよ。もしかしたら、チップに代わる新手のコントロール装置かもしれないわよ。まさしくXファイルじゃない。」

「スマッシュ・マウスね―――」
モルダーは考え込むようにその曲名を繰り返した。
「でもクールだったろ？」

「とてもクールよ。デザイナースーツを着て、ブランドネクタイを締めた38歳の白人少年が、ピザハットの男子トイレの前でラップに挑戦したにしては。」

「今日こそ踊ってもらうぞ、スカリー。僕の誕生日だ。」

「誕生日だから、お尻を叩いてほしいのかと思ったわ。」

「サドだな。」

スカリーは表向き恥じたように微笑んだ。何といっても彼はモルダー、あてこすりの王様で、彼女はスカリー、実用を重んじる理性の人。そして彼のエディプス・コンプレックスの対象―――。彼女はモルダーの言動をおもしろいとは思わないことになっている。

モルダーが投入口にコインを数枚落とし、いくつかボタンを押すと、ジュークボックスの内部で機械が回り出し、赤と紫のライトが点灯して、古いスピーカーに電流が流れる音がした。レストランの厨房から、金属のフライパンがぶつかり合う音が響く。Dr．ゼイウスが彼らにピザを作っているのだ。キーボードがメロディーを奏で、
ジョー・コッカーの指がギターの弦を弾いた。

ジュークボックスの脇に寄りかかっているスカリーの顔に、瞳に、色とりどりの光が映る。スピーカーから、誰かを駆り立てる重厚な声がした。そのままで―――長くは待たせない。君の元へ戻ってくる。夜のとばりが降りるとき―――。

彼女は息を吐き、首を左右に回して、高いヒールのブーツの足を組み替えた。音楽に合わせて、ジュークボックスに軽く弾んでいる彼女の指には気付かぬ振りをするべきなのだろう。彼のスカリーは実用を重んじる理性の人で、モルダーは彼女に恋してはいないことになっている。

だが、彼は恋していた。そして彼女もそうだった。以前、スペンダーの部下の医師たちが、彼の脳をメスで切り開いたとき、彼はスカリーの中に入り込み、心の声を聞いた。ダイアナは同情的に手を握っていただけで、メスを止める努力は何もしてくれなかった。ダイアナとは違い、スカリーの愛には何ら偽るところがなかった。そこ
には白く燃えるような情熱もなかったが、例えるならば、フランネルのパジャマのような愛―――すっと溶け込み、喜びを生みながら、日常に染み渡る。夜中の電話のおしゃべりや、グラスの縁を拭かずにソーダをシェアすることに象徴される愛だ。それは、どこか意識のよそにある感情で、下手をすると気付かずに通り過ぎてしまう
。

「モルダー、ひとつ教えて。あなたの情報提供者は、みんながみんな、靴下の中に剃刀を隠し持っていそうな、妄想性分裂症のUFO狂信者でなければならない決まりでもあるの？それがある種の必要条件なわけ？次回は、6時間飛行機に乗って、4時間ドライブをする前に、できれば―」

「踊ろう、スカリー。」
モルダーは彼女の言葉を遮った。

「嫌よ。」
口ではそう言いながら、彼女の首の振り方は型どおりを演じているようでもあった。

「そう言うなよ。僕の誕生日だ。踊ってくれるだけでいい。」
彼は家をなくした子犬のような眼差しを向け、下唇を少しばかり突き出してみた。
「楽しめなんて言わない。ただの憐れみと思えばいいさ。」

すげなく断られるに思えたが、スカリーはジュークボックスを離れると、彼の腕の中におさまった。ミスティック・ピザハットの男子トイレの前にできあがった、5フィート四方のダンスフロアで、窮屈に円を描く。

「ただの憐れみですからね。」
彼女は一言釘を刺し、頭を彼の肩に預けた。モルダーは彼女のウエストに回した手の置き場を、腰の銃と交渉した。

ほんの数秒でいい。彼はもう一度、スカリーの心の中に入り込みたかった。彼の子供は望んでも、彼はいらない―――その事実にどんなに傷つけられたか、彼女は気付いているのだろうか。それを知りたかった。彼は試験管の中の遺伝子に過ぎない。初めて体外受精を試みる日には、自分は紳士だから、まずはディナーをおごって、終
わったらきちんと家まで送り届けようと、モルダーは申し出た。きっとこの6年で一番のデートになると、皮肉を交えることも忘れなかった。スカリーはどこか不安そうに笑い、付添いは母に頼むとそう言った。

子供は駄目だったが、僕のことなら望めばすぐにでも手に入れられる―――そのことを言葉にして彼女に伝えようとしたのが、ほんの3週間前。君が僕を完全にしてくれる―――そう告げると、彼女は儚げな頬笑みを浮かべ、唇を見つめたが、額にキスをした。

「"夜のとばりが降りるとき・・・君のとなりにいたい・・・"」
曲にあわせて揺れながら、彼は歌を口ずさむというよりは、吐息で歌詞をなぞった。

彼女の顔に頬を寄せ、瞳を閉じる。簡単に偶然で片付けられる方法で、彼の唇が何度もスカリーの頬を掠めた。彼の大きな手は、彼女の細いウエストに余り、肋骨の一番下より腰に近いところにあるもっともな言い訳になった。

オーブンの蓋がぎーっと鳴り、ソーダ・マシンがごぼごぼと唸った。Dr.ゼイウスがダイエット・ソーダをふたつ用意している。

「ランチがくるわ。」
頭を肩に凭れさせたまま、スカリーが囁いた。

「そうだな。」
歌が終わってもまだ揺れながら、彼は答えた。店の向こう側では、Dr．ゼイウスが注文の品をテーブルに運び、皿と、フォークと、ナプキンを一束置いて、再び厨房へと姿を消した。

スカリーは頭を起こし、身を引いて、彼が離してくれるのを待った。

ジュークボックスから、ジョー・コッカーのギターとキーボードのメロディが薄れて消えていく。だがすぐにライトが灯り、滑らかなバックビートが再び流れ始めた。
「"そのままで―――"」
革のような質感のジョーの声が請い、そして約束した。
「"長くは待たせない。君の元へ戻ってくる。"」

「もう一度？」

「誕生日だからね。」
彼は言い、スカリーを胸に抱き戻した。古びた木の床は目が粗く、足場も不安定で、空気はピザの生地と液体ハンドソープの匂いが漂っていた。日々、世紀末の恋―――手に入る以上のものを望んではいけない。

「何回かける気？」

「何回までならつきあえる？」

彼女はため息を吐いて、彼に身を預けた。

「5回だ。　5回だよ。」
彼が白状する。

彼女がこんなにも近い。想像力を働かせれば、彼の胸板に重なる胸のふくらみの形がわかる気がした。間を隔てるものは、彼のTシャツとYシャツとスーツのジャケット、そして彼女のブレザーとシャツとブラしかない。想像力を働かせれば、彼女が踊ってくれたのは、誕生日が理由ではないと信じられた。スカリーは確かに自分を愛し
ている。彼が望む愛され方とも、彼の愛し方とも形は違えど、間違いなく彼は愛されていた。慈愛で接する彼女に対し、彼が抱くのは恋心―――それは痛ましい組み合わせだった。

「・・・彼女は昔、恋人だった。」
ジョーが"失うものは何もない。恐れるものも何もない"という歌詞を歌う傍らで、モルダーが静かに切り出した。
「ダイアナだよ。Xファイルを一緒に見つけて、6ヶ月一緒に暮らした。彼女が出て行くまで。」

「彼女が出て行った理由は何？」

「カウンセラーによれば、僕が仕事にのめり込みすぎたのが原因らしい。それから彼女に対して心を開いていないとも指摘された。1時間200ドル払った見返りに、僕はバカだと太鼓判を押された感じだ。」

「あなたはバカじゃないわ。果敢なだけよ。」

断言するスカリーに、モルダーはほくそえんだ。
「いいや、僕はバカだ。よく6ヶ月も続いたと自分でも驚くよ。君に想像できるか？」

彼女は何も答えず、モルダーは心臓が跳ねるのを感じた。頭を肩に預けているため、彼女の顔は全く見えない。モルダーは咳払いをして、食事が冷めるというようなことをもごもごと呟いた。

「あなたに・・・あなたにドナーを頼んだのはね―」
スカリーは決して"父親"という単語を使わなかった。
「ダイアナのせいではないわ。彼女のことは一切関係ない。ただ、他の人は考えられなかった。それだけよ。」

「たかがDNAだ、スカリー。君なら他にいくらでも相手があったろうし、その方がずっと簡単だったはずだ。」

「でも私はあなたを知っている。あなたの長所を受け継いだ子供が欲しかったの。知的で、情熱家で、勇敢で、裏表がなくて―」

「でも僕自身はいらないんだな―――」
彼は囁くと、深く息を吐き、スカリーの髪に顔を埋めた。

彼らが授からなかった子供のことで、口にしてはならない話題のリストがまた新たに増えることになった。そこには既に、スカリーのアブダクト、癌、それを抑制するため首の付け根に埋め込まれた精巧なチップ、ダイアナがラインナップされていた。ダイアナが原因で生じた亀裂は、モーゼの割った紅海の溝にも匹敵する。他にも、エド・ジャースとフィラデルフィアの一件、エミリー、フィリップ・パジェット、南極に連れ去られる直前のキス未遂・・・考えない振りをするゆえに、ふたりには、口にしてはならない事項があまりにも多すぎた。

「あなた自身を望んでほしかった？」
ようやく口を開いた彼女が、静かに問う。モルダーは彼女の神経が張りつめ、距離をとろうとする気配を察した。

「そう捉えるのは間違いだ。」
彼は嘘を吐いた。
「僕はただ・・・くそ。忘れてくれ。」
曲もあと少しを残すところで、彼は感情の波を落ち着かせた。

「・・・上手くいかなくてよかったと思ってる。」
しばらく口を噤んでいた彼が言った。歌は終わり、また初めからCDが再生する。
「理由は僕にある。僕は君のためを思って子供を望んだ。だが、いろいろなことがわかった今、スペンダーが僕の脳組織から何を奪い、あの遺跡片にどんなつながりがあるにせよ、体外受精が成功しなくてよかったと思えるんだ。」

最後の試みが成功していたら、彼女は目下、妊娠しているはずだった。彼は手の位置を変え、スカリーの平らな腹部を自分の体に押し付けるようにした。

「もし事情が違っていたら・・・仮に私たちの関係が・・・それでも、同じように感じたと思う？」

「つまり、僕らが恋人同士だったとしたらか？」
掠れる声で彼が訊く。肩に乗せたスカリーの頭が頷いた。
「だが僕らは違う。君は僕の親友で、この世でただ一人、僕の誕生日に、僕を憐れんで踊ってくれる唯一の女性だ。それに、いい香りがする。」

「それはどうも。」
彼女は礼儀正しく返した。

「あと3回だ。」
ジョー・コッカーの乾いた声が約束するのを聞きながら、モルダーが念押しした。長くは待たせない。君の元へと戻ってくる。夜のとばりが降りるとき―――。

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End of BookII-a
Continued in BookII-b