TITLE : Lesser Evils - 10 -

※このお話は、FTFの約８ヶ月後という設定ですが、シーズン６のエピはないものとして進みます。

作：Hannah Mason　訳:JNK

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Chapter Ten
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「ここで停めろ。」
リプリーが指示したのは、質素な佇まいの白い家だった。マツの低木と色とりどりの花壇が両側に広がっている。春の雨が屋根を叩きつけ、ふたりはしばらく押し黙ったまま、湿めった空気を閉じこめた車中に留まっていた。

皮肉ったように沈黙を破ったのはモルダーだった。
「中へ招待してくれるんじゃないのか？　それともこのまま景色を観賞しろと？」

「減らず口は叩くな。」
リプリーは銃のグリップを固くして、家の方を一瞥し、それからモルダーに視線を戻した。
「ゆっくりドアを開けろ。」

モルダーがドアハンドルに手をかけると、こめかみに銃口を押しつけリプリーが命令した。
「もっとゆっくりだ。」

モルダーの動作が固まる。何もトラブルは招くつもりはないとの証明に両手を上げ、慎重に左足でドアを押し開けた。彼の脳内を巡る血液が、脈打ちながら叫んでいた。スカリーのところへ・・・スカリーの居場所へ・・・なんとしても辿りつくんだ。今一番重要なことは、スカリーの無事をこの目で確認することだ。

そのときこそ、奴の息の根を止めてやる。

ふたりの男は土砂降りの芝生の上を黙々と重い足を引きずり、玄関に到達した。
モルダーはポーチでぴたりと立ち止まった。
「お次は何だ？」

「こちらを向け。」
顔に幾筋の雨の川を作り、銃を振りかざす男の姿は完全に狂気の沙汰に見えた。リプリーはひどく渋い顔をして、モルダーに鍵束を投げてよこした。
「真ん中の鍵だ。」

モルダーはドアを開け、9ミリ口径の拳銃を嫌というほど背中に感じながら、リビングにゆっくり踏み込んだ。

とにかく今はスカリーを―――。

抜け目なく視線を走らせる。1度、2度。ソファ、椅子、ランプ・・・スカリーはいない。棒立ちするモルダーの足元のベージュのカーペットに雨の雫が滴った。リプリーが腎臓の辺りを鋭く小突き、前に進むよう催促した。
「進め。」

モルダーは一瞬壁に向かってよろめいたが、すぐに足取りを確かにし、背後の男に尋ねた。
「彼女はどこだ、リプリー？　ここだと約束したはずだ。」

「そう心配するな、彼女ならちゃんといる。」
リプリーは再び銃で小突きながら答えた。
「だが、君の姿を見ても喜ばないと思うがな。」

リプリーは正しかった―――キッチンへと続く角を曲がった次の瞬間、モルダーはそう思い知らされた。そこで目にしたのは、隅の椅子に縛り付けられた相棒の姿だった。頬が上気し、髪は乱れ、目の回りには隈ができていた。モルダーを見つけた瞳が涙で潤み、唇は小刻みに震えていた。

「スカリー！スカリー・・・大丈夫か？」
駆け寄ろうとしたモルダーの肘をリプリーがぐいと引き、首を締めるように後ろから腕で押さえこんだ。モルダーは怒り任せにもがいたが、窒息しそうな拘束に咳き込んだ。

「スカリー・・・？」
しわがれた声を絞り出す。感覚という感覚が暴走して渦を巻き、スカリーが答えを返さないまま1秒経過するごとに、彼の恐怖が肥大していく。 とてつもなく、何かが、おかしい―――。

「さあ、どうした？エンジェル・・・」
リプリーが肩越しに笑い声を発した。
「恋人にゲームのルールを説明しておやり。」

目を固く閉じて顔を逸らしたスカリーに、モルダーは再び苦いものが込み上げるのを感じた。
「スカリー、頼むから何か言ってくれ・・・・」
なぜ彼女は一言もしゃべらないんだ？

すると、彼女が瞼を持ち上げて、まっすぐに彼を見た。―――彼のすべてを見通すような瞳。その眼差しは魂にさえ届くようだった。

「許して、モルダー・・・本当にごめんなさい・・・」

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コートの裾をケープのように風になびかせながら、FBIバッジを引提げ、警察署内に駆けつけたスキナーが、受付の警官に手短な質問を浴びせた。
「彼女はどこだ？」

「目撃者ですか？」

「ああ、そうだ。目撃者の女性だ。」
スキナーは苛付いて、険のある声で迫った。
「一体どこにいる？」

「すぐ向こうです。」
警官が指差した先に、厚めのブラウンの髪をひとつに束ね、後ろに長く垂らしている、ほっそりした女性を見ることができた。彼女は、趣味の悪いグリーンの壁を美しく飾る警察官の悪人面を並べたフォト・ギャラリーを前にして固まっていた。スキナーは早足の大股3歩で彼女の側に近づいた。

「ミス？」

驚いて顔をこちらに向けた女性に、スキナーはもう一度バッジを閃かせるや、単刀直入に質問した。
「土曜の夜、モルグで誘拐を目撃されたとか？」

彼女は何も言わず、ただ頷いた。ヘイゼルの瞳を丸くしたまま、煮え切らない様子で肩越しの写真をちらりと振り返る。

気の弱い娘だ・・・そんなものに合わせる暇はないというのに。スキナーは心の中で愚痴をこぼしながら、声は冷静を守り通した。今までで一番の手がかりを怯えさせては何にもならない。
「具体的に何を見たんです？」
スキナーは精一杯優しい口調で尋ねた。

「男です。」
彼女からはすぐに答えが返ってきた。
「男が腕に女性を抱えてモルグの通用口から出てくるのを見ました。最初は死体を運んでいるんだと思ったんです。」

なぜもっと早く知らせに来なかった？スキナーは内心腹を立てたが、平常心を保ち続けた。落ち着け、短気を起こすな。今は事実を聞き出すことが肝要だ。スキナーは自分にそう言い聞かせた。
「その女性の風貌は？」

「女性のことははっきりとは見てないんですけど・・・でも赤毛でした。」

スキナーは上着のポケットからスカリーの写真を引き抜いた。
「この写真の女性である可能性は？」

その若い女性は両手で写真を受け取った。
「ええ・・・彼女だと思います。」
彼女は眉間に皺を作って、スキナーを見上げた。
「この人が誘拐された女性なんですか？」

「そうです。」
スキナーは簡潔に答えた。
「彼女を抱えていた男の顔はよく見えました？」

女性は今一度肩越しに視線を投げた。何がそんなに気にかかるのかと、スキナーは彼女の後ろを覗き込むようにした。

「それが・・・しっかり見たと思っていたんですけど・・・・でもやっぱり間違いだったかも・・・」

くそ、これ以上は付き合いきれん。スキナーはとっさに思ったが最後、態度をがらりと変えた。
「しっかり見たと"思った"とはどういう意味だね？見たのか、見ないのかはっきりしたまえ。」

「見たのは本当です。」
今度は彼女もしっかりと答えた。

「では、男の特徴を言えるか？あるいは写真の中から選び出すことは可能か？」
スキナーは選別用の写真を持ってきていた。その中にはリトルフィールドとレイモンド・バレンティのものも含まれていた。運がよければ、中から犯人が見つかるかもしれない。そうすれば1時間以内に逮捕にこぎつけることができるのだ。

「それが問題で・・・」
彼女は顔を赤くして口ごもり、もう一度、肩越しを顧みた。
「さっき見つけちゃったんです。」

「一体何を言っている？他の誰かが既に話を聞いたのか？」
スキナーは誰もいない廊下を、他の警官の姿を捜して軽く見回した。

「いえ・・・そうじゃなく・・・ここで待っている間、そこの写真を見てたんです。そしたら・・・」
ついに彼女は壁に正面向いて、一枚の写真を指差した。
「あたしが見たのはこの人なんです。」

スキナーは大きな手で彼女の立ち位置をそっとずらすと、問題の写真に目を凝らした。
「ジャック・リプリー？」
横の女性に向かい、鋭い視線を投げかけた。
「あの晩モルグでジャック・リプリー刑事を目撃したのか？」

彼女はおどけて目をむいた。
「バカみたいでしょ？きっと何か勘違いして・・・」

スキナーは彼女の両肩をがっしり掴み、言葉を遮った。
「確かなんだね？」
切迫した口調で確認を取る。
「この男が、モルグから女性を連れ去るのを、君は間違いなく目撃した。」

肩にかかる力が、突然彼女に確信を与えた。スキナーの目をまっすぐ見つめて宣言する。
「ええ、間違いありません。」

「なんてこった・・・モルダー」
スキナーは彼女を唐突に解放すると、踵を返し、受付に向かった。彼は電話中の男の手から受話器を奪うと、低い声で命令した。
「ジャック・リプリーの居所を突き止めろ。」

「ですが・・・」
首を振る小太りの警官に、スキナーは彼から取り上げた受話器を再び手に持たせた。

「今すぐ、だ。」
その言葉に押されるまま、警官は即座に番号を押し始めた。

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『許して、モルダー・・・』

その呟きは心からの謝罪だった。彼女が謝る必要など爪の先ほどもないと、モルダーは骨まで切り裂かれる思いだった。縛られた体で弱々しく悶える様に、目を刺すような涙が込み上げた。何を言うんだ、やめてくれ、スカリー。自分を責めるんじゃない。すべて僕のせいだ。僕がもっと注意を払っていれば・・・あとほんの少し早く
気が付いていれば、ふたりでこんな状況に陥ることもなかった―――心の中で語りかけながら、モルダーは自分が与えてしまったであろう残酷な仕打ちの数々を、思い返したくはなかった。

「スカリー・・・」
息ともつかない声で、モルダーは再び彼女の名前を呼んだ。

「黙ってもらおうか。」
リプリーはモルダーの首を押さえる腕をきつく締めた。拳銃は脇腹に突き付けられたままだった。
「この場では、私が所謂"ルール・ブック"だ。それを忘れないでもらおう。」

モルダーは据えかねた怒りに震えがくるのを感じた。今の彼は爆破へ向けてカウントダウンを続ける時限爆弾と同じだった。呼吸が浅く、速い。この怒りを解放するのは、スカリーをこの場から無事退避させてからだ。抑えが効くうちに彼女を外へ―――。

蛇のように首に巻き付いていたリプリーの腕が唐突に離れ、いきなり自由になった体が前のめったが、タイル張りのキッチンテーブルに両腕を付いて、床に転ばないよう体を支えた。
「さて・・・武器を捨ててもらおうか。」
リプリーはぞんざいな口ぶりで、モルダーのシグ・ソーアーを収めたホルスターの辺りを、手にした銃を振って示した。
「ゆっくりだ。指は2本、左手を使え。」

モルダーは招かれるまま警告に従い、テーブルの上に静かに銃を置いた。スカリーに背を向ける格好になったモルダーは、危険を承知で彼女を顧みた。一部始終を見つめていた彼女の瞳は、大きく見開き恐怖に怯えていた。大丈夫だ、スカリー。ここから必ず出してやる。

「大変よろしい。次は離れてもらおう。」
素直にテーブルから数歩下がったモルダーに合格点を与えるよう舌なめずりをし、そのモルダーから目を離すことなく、リプリーはスカリーに話しかけた。
「見たかい、エンジェル？恋人は言われた通りに従うことを知っている。君にも見習って欲しかったよ、実に残念でならない。そうすれば相棒の命は救えたかもしれないのに。」

「あなたの望みは何？」
彼女は低く掠れた声で尋ねた。
「何でも言うことを聞くわ。だから彼を巻き込まないで。」

「スカリー、やめろ・・・」

「ああ、くだらんメロドラマはよそでやってくれ。」
リプリーがぴしゃりと遮り、スカリーの目線まで頭を下げ、串刺しするほどの視線で睨んだ。
「チャンスはあげたはずだよ、かわいい人。それに正体は割れているんだ。君から欲しいものなどもうない。私が望むのは唯一、恋人が死に倒れたとき、そのきれいな顔がどんな表情になるか知ることだけだ。」
モルダーに顔を振り向けながら、スカリーに対する毒を吐き続ける。
「だが心配することはない。君もすぐ後を追うんだ、エンジェル。他の連中と一緒に地獄の業火で焼かれる運命が待っている。それじゃご不満か？」
リプリーは満面の笑みを浮かべ、スカリーに視線を戻した。
「相棒の脳みそが床一面に散らばった光景を目に焼き付けたまま永遠の生き地獄を味合う君も捨て難い・・・」

「神も見下げた―――・・・」
モルダーの怒りは沸騰寸前だった。

「おいおい、勘弁してくれ。」
これ見よがしに銃を振ってモルダーを窘める。
「汝、主の御名をみだりに口にすべからず、だ。」
リプリーは微笑さえ浮かべ、このゲームを明らかに楽しんでいた。
「よかったな、エンジェル。地獄に道連れするお仲間ができたようだぞ。」

「地獄があることを願うよ。」
モルダーは激情の言葉で噛み付いた。
「神も、地獄も、その類すべてに実在してほしいね。この世のどんな刑罰も、お前の仕出かした罪の償いには不十分だ。」

リプリーの表情から笑顔が消えた。
「私は神の声を聞いたんだ。立派な正しい行為だよ。」
いやに冷たい声で申し立てる。
「彼女たちは新たなイブだったんだ。穢れを清め私の元に送られた・・・世界の終末まで、大切にお預かりするようにと。だが、私は彼女たちの真の魂を見破った。汚らわしい、吐き気を催す本性をね。まるで蛇だ。そう、私は人違いをしていたんだ。その私に主は進むべき道を照らしてくださった。その昔、神が戒めにイブをエデン
から追放したように、あの女どもをこの街から排除するよう仰せになられた。ゴミ以下の卑しいメスを一匹残らず駆除したあかつきには、主の再臨が叶い、私とイブを楽園へとお導きくださるのだ！」
だんだん語気の強まっていく声が、硬質な壁に囲われたキッチンに大きくこだました。

リプリーは自身の長広舌に酔い、スカリーが手首の拘束を解いたことに気付かなかった。

「主は告げられた。『汝らはあたかも神のごとく、善悪を知るようになる』と。私はこの予言に忠実であり続けてきた。天上の父は私の高潔なる意志をご承知だ。来る最後の審判の日には、選ばれし民として、私は誇らしげに神の祝福を受けるだろう！」
モルダーを壁際に追いやり、わなわなと痙攣する腕で押さえつけながら、リプリーはさらに声を張り上げた。震える指先が引き金にかかり、どっと冷や汗が吹き出るのを感じながら、モルダーは悟られないよう相手の背後に視線を送った。リプリーの後ろでは、スカリーが残りのコードを外しにかかっていた。

急げ、時間がない―――心の中で急き立てる。

「私のお仕えが報われるのだ！」
リプリーは今や声の限りに叫び、彼の教義をモルダーに信じこませんばかりの勢いだった。
「神は私の払った犠牲をお認めくださり、罪を清めたイブは私と共にエデンの園を永遠に約束される！」

覚束ない足取りで立ちあがったスカリーと、リプリーの肩越しに覗くモルダーの瞳がほんの一瞬絡み合い、モルダーはその視線をテーブルの上の銃へ流した。銃を取るんだ、スカリー。彼は目で指示をした。早く手に入れろ。テーブルまであと数インチ、スカリーが拳銃へ手を伸ばした。

「どこを見ている？」
ごたいそうな演説を中断し、モルダーの目線を追って首を後ろに回すと、モルダーから押収したシグの銃身をスカリーが握ろうとする瞬間がリプリーの視界に飛びこんできた。

「何をするんだ！」
リプリーは歯を剥いて唸り、彼女がしっかりと武器を手に取るより先に腕を掴むと、自分の銃で顔を殴りつけた。既に弱りきった彼女の体は、その一撃で力なく床に崩れ落ち、倒れる瞬間、側頭部を陶器のシンクに強打した。

「スカリー！」
心臓が凍るような思いで、悲鳴を飲み込むことができず、モルダーは彼女の名を叫んでいた。

モルダーの銃はスカリーの手を離れ、カラカラと音を立てて回り、すれすれ届かないところで停止した。腕も足も不自然にもつれた格好で床に転がったまま、スカリーはぴくりとも動かない。

雷に打たれたように素早く、無駄のない動作で、モルダーはズボンの脚の下から予備の銃を引き抜いた。腕を突き上げ、リプリーに銃口を向けたその瞬間と同時、相手もまた自分の置かれた状況を思い出したように銃を構えて、くるりと踵を返した。

一瞬固まり、ふたりの男は互いの視線をぶつけた。テーブルを挟み、睨み合ったまま、距離を保ち、ゆっくりと旋回する間、部屋に聞こえていたのは彼らの荒い呼吸音だけだった。緊張から腕が苦痛を訴え始め、引き金にかかる指先に軽く力がこもる。モルダーはスカリーの様子を目で確かめたいと、気掛かりでならなかったが、リプ
リーから目を逸らすことはすなわち死を意味した。

「スカリー？」
呼びかけるモルダーの声には余裕が感じられない。
「スカリー、声を聞かせてくれ。大丈夫か？」

返答はない。

不敵な笑みを浮かべるリプリーに、モルダーは今や両手で銃を構えて、足場も固め、しっかりと照準を絞って、再び声をかけた。
「スカリー？しっかりしろ、起きるんだ。」

「地獄の業火で焼かれるがいい。」
そう口にしたリプリーを、モルダーはその場で撃ち殺しそうになった。

「目を開けろ、スカリー・・・」
命令する彼の声は差し迫ったものがあった。
切に願えば、強く信じれば、それだけで彼女はいつでも応えてくれた―――
「頼む、起きてくれ。」

ようやく、小さな呻きと、床の上で身じろぎする音が耳に届いた。よかった―――――――
「そうだ、いいぞ、スカリー。」
射るような瞳は依然リプリーと向き合ったまま、彼女を励ました。
「君ならやれる。さあ、立つんだ。」

起き上がろうとして、再び床にどさりとくずおれたスカリーの口から呻きがまたこぼれた。切り裂くような強烈な痛みが彼女の頭を突き抜けていく。

リプリーは暗い笑いを短く吐き出した。
「どうした、エンジェル。倒れるにはまだ早いぞ。ちょうど佳境に入ったばかりじゃないか。」

今度は両腕を床に付き、スカリーは上体を起こした。その様子をモルダーは目の端で捕らえていた。
「それでいい。　もう少しだ。」

彼女はふらつきながらも、シンクを掴み支えにして、自分の足で立ち上がった。部屋がぐるぐると回り、視界もぼんやりと霞んでは消え、めまいを助長した。スカリーは吐き気に襲われながら、浅く息継ぎを繰り返し耐えた。

「大丈夫か？」

「ええ・・・平気よ・・・」
心配するモルダーに、吐息交じりで答えを返すも、体の軸は定まらない。

「よし、すぐにここから出るんだ。」
モルダーの銃口はリプリーの眉間を狙っていた。

スカリーは首を横に振った。
「モル・・・ダー・・・」
発音も不明瞭で、ろれつも怪しい。

「逃げろ、スカリー！こんなところは早く出るんだ！」

銃を構えたまま、リプリーははしゃいだように高笑いした。
「そうだ、"逃げろ、スカリー"。」
モルダーの台詞を得意げにそっくり真似てからかう。

「いやよ。」
辛うじて、囁き程度の声を発する。痛みで朦朧としていたが、自分が部屋を出るまでにモルダーは殺されるであろう予感があった。

「スカリー、急げ！退避しろ！」
怒鳴る勢いでモルダーが叫んだ。

「どうやら彼女には逃げる気がないらしいぞ。・・・どうした、エンジェル？せっかく彼が助かるチャンスをくれようっていうのに。」

「置いてはいかないわ。」
彼女は声を絞り出した。

小ばかにするようにリプリーの口端が上がった。
「悩みどころだな、エンジェル？」
優しく問いかけながら、小さく舌を出し唇を湿らせる。
「逃げて自分が生き残るか、残って相棒の命を助けるチャンスに賭けるか・・・賢人でさえ板ばさみになる。そうだろう？」

スカリーは口を閉ざしたままでいた。彼女の目は、3フィート先に転がっている銃に注がれていた。そこはちょうど冷蔵庫の陰になって、リプリーの視界から外れていた。スカリーは再びめまいに襲われ、世界が完全に二重にぼやけて見えたが、一瞬にしてまたひとつに戻った。

「お願いだから逃げてくれ、スカリー。」
モルダーの辛そうな声は、懇願に変わっていた。
「振り返らずに行くんだ。」

スカリーは再び銃を盗み見た。

「選択肢を絞ってやろう、エンジェル。結末は私が選ぶよ。」

リプリーはモルダーの胸部に直接銃口を当て、立て続けに発砲した。その衝撃で飛ばされたモルダーが、背中からキッチンカウンターにぶつかった。

「やめて―――！！」
スカリーは掠れた声の限りに叫んだ。銃を床からすくい上げたが、目の前のリプリーが突然2人になった。彼女は二重にぼやける視界を前に、構えた銃を右往左往させた。

どちらなの？奴はどっち？

するとリプリーの銃が再び火を吹き、今度はモルダーの胴体に命中し、彼は床に崩れ落ちた。耳を裂く銃声が、スカリーに幻覚でない方を教え、彼女は即座に発砲した。

銃弾はリプリーの胸に風穴を開けた。彼は苦痛の悲鳴をあげながら床に倒れ、まるで感電した男のようにひきつけを起こしていた。スカリーは矢継ぎ早に6発、銃弾を空にした。空になった銃は、彼女の手から、すると抜け落ちた。

視界が1、2度黒い渦に覆われ、世界が完全に消滅すると、スカリーは床に倒れた。玄関が破られる音がかすかに耳に届き、怒鳴って命令するスキナーの耳慣れた声が続いた。

「遅いわ・・・」
薄れていく意識の中で、彼女は小さく呟いた。ゆっくりと床にくずおれていくモルダーの姿が脳裏から消えていく。
「もう手遅れよ・・・」


End of Chapter Ten